2009年9月7日月曜日
そして新たなる出発
今日はLabor Day (労働者の日)ということで祝日で学校が休みでした。
久しぶりの3連休で、のんびりしています。
やっとこうやってブログのほうの更新もできました。
ふと思うとこのブログを始めてから丸一年経ちました。
なるべく毎日更新するのを目標としてきました。休学して治療に集中している間は時間がたっぷりあったのですが、学校が始まって忙しくなり毎日ひたすら勉強に時間が取られる日々を送っています。
そのため、今日でこのブログを終了することにしました。
振り返ってみるとこのブログ、初めは自分の受ける治療経過を自分で覚えておくために日記のようなつもりで始めました。
副作用なども強くでる治療を受けるにあたり、自分の身の回りで何が起こるのか、そして自分は何を思うのだろうかというのを書き留めておきたかったのです。
毎日黙々と書くことで、自分の考えを整理することもできました。
そして何よりも予想していなかったのが、私の地味なブログを読んでいただいて、コメントをしていただいた皆さんとの出会い。病気と闘うということは、あくまで自分だけの戦いです。医療従事者の方達の力を借りて治療してもらうのですが、その治療を受けて立つのは患者本人に過ぎない。時には大きな不安が襲ってきても強い精神力を持って立ち向かわなくてはいけない。そんな時、どんな名医であってもその不安を完全に取り除くことは困難でしょう。
そんな中ブログを書く私に、みなさんから心温まるコメントをいただきました。
同じく手術や抗がん剤、放射線治療を受けた患者さんから「大丈夫だよ、頑張って」と励まされました。それから病気と関係ない日常の事柄にもコメントしていただいて、「一人じゃないんだ」と思わせて下さいました。
インターネット上だけで、直接お会いしたことのない素晴らしい方に出会える。そしてどんなに離れていても、お互い励ましあっていける。15-20年前には考えられなかったことですね。オンライン上でも、お会いできた人達には不思議な「ご縁」を感じ、心の底から感謝しています。
お会いした素晴らしい皆さん、本当にどうもありがとうございました。
これからもブログ等お持ちの方にはちょくちょくお邪魔させていただきます。
それでは皆さんがいつまでもお幸せでおられますように。
一刻も早く癌が完治する時代がきて、みなさんと祝杯を挙げる日を夢見ています。
2009年9月1日火曜日
アトピー性皮膚炎
どうやらアレルギー性皮膚炎がぶり返したようです。
この痒~い症状は、約4年前に出産してからずっと悩みの種でした。
それが化学療法を受けることで完全に消失。
喜んでいたのもつかの間、抗がん剤も体からすっかり抜けて、アレルギーを引き起こしている細胞君たちも復活したのでしょうか。
今は手、胸を中心に体の所々に痒いスポットがあります。
初めは単なる痒み、または蕁麻疹のような無色のプツプツなどの形であらわれ、ひっかくと盛り上がってさらに皮膚が荒れてきます。最後は痒く赤く、ザラザラの皮膚になり、その状態で何週間も変化しません。
今回は早めにステロロイドを塗っていますが、効いてるような効いていないような。
ひどくなるようなら病院に行こうと思っています。
2009年8月30日日曜日
動物園に
形成外科医とのフォローアップ
毎日何かと忙しくしていますが、充実した日々を送っています。
金曜日は形成外科医のDr.Mのところに行ってきました。
腹部に溜まっていた水の量はここ2週間でめっきり減り、今回は太い針で水を抜かなくて住みました。少しだけ水が残っているようですが、どうにか自然吸収できそうな量のようです。
これからは腹筋を鍛える運動をするようにと言われました。
他の人に助けてもらって、私の手を引っ張ってもらうようにして腹筋トレーニングをするようにと。
残念なから夫は金曜に出張で南米に行ってしまいました。
どうにか自分ひとりでできる方法を考えなくてはなりません。
6週間後にまた受診です。
もし完全に筋トレをサボったら、ばれるかなあ。
2009年8月17日月曜日
2009年8月12日水曜日
今日は215ml
約一週間でまたお腹に水が溜まってしまったため、また抜いてもらいました。
今日抜けたのは215ml。
まあ量が減ってきているのでいいのですが、はやく自然吸収できるようにまで回復して欲しいです。
次回の診察は2週間後。
今度はあまり溜まらないといいなあ。
午後は夫と一緒に散髪に。
美容院じゃなくって、床屋です!
なんてったって、男の人みたいな髪型なので・・・
散髪といっても、ぼさぼさになってきたもみ上げをそろえてもらって、少し刈り上げてもらっただけ。
でも少しすっきりしました。
年末ぐらいにはもう少し女らしい髪型になるかな。
2009年8月7日金曜日
ママみたいに
髪の毛を洗った後に絡まってしまって、くしでとかすと「いたーい」ときます。
あと結構伸ばしっぱなしなので、ボサボサです。
そこで今日お風呂に入ったあと、娘の髪の毛を切ることにしました。
基本的にはおかっぱ頭にして、前髪を結ばなくても良いぐらいの眉ぐらいの長さに。
私が髪の毛を切っているのに気づいた娘は「もっと切って~」と言ってきました。
「もっと切るよー」と言いながら、注意深く髪の毛を切っていった私。
目標はおかっぱの長さ。
終わりに近づいたとき、「もっと、もっと」と言うので私が「もういいよ。これでいい。」と終わりにしようとすると、「じゃあ、私が切る~」といってハサミを取ってもっと切ろうとします。
「だめだよ」と言うと娘が、
「だって私、ママの髪の毛と同じがいい」と駄々をこねました。
私の髪の毛といったら、3cmぐらいの長さなんですけど・・・
何でも親の真似をしたがる年頃のようです。
2009年8月5日水曜日
今度は325ml
初めは普通の診察室に通されたのですが、Mr.Mにまたお腹に水が溜まってきたことを言うとすぐに別の部屋へ。
また局所麻酔を打たれて太い針をさされ、水を抜いてもらいました。
今日抜けたのは325ml。
またかなり溜まってしまっていました。
学校が2週間ほどで始まるので、その前にもう一回受診とのこと。
もうそろそろ水のほうは自然吸収されて欲しいのですが。
学校始まってからも溜まると、抜いてもらうのにわざわざDr.Mのところにいくのが面倒そう。
基本的にお腹に水が溜まる以外は順調で、これからは重いものを持ったりする以外は活動に制限なしという言葉もいただきました。でもまだ運動で走ったりするのはつらそうかな。
さて前にも書きましたがDr.Mは私のクラスメートのお父さんです。
息子さんが6人いて、その一人。Dといいます。
Dはどうしてますか、今実習はどこでやってますかと尋ねると
「外科のロテーションやってるんだけどね。実は国家試験に落ちちゃってね。また受けなおし。それで病理学のクラスをとらないといけないって」
と、自分の息子とはいえ国家試験に落ちちゃったことを気軽に話していました・・・
うちの学校は一学年120人ほど。
二年の終わりにうける国家試験第一弾は、約99%の学生が一回でパスするそうです。
でも毎年1-2人は一発で受からなくて、2回目には全てパスするそう。
まさかDがその一人とは。
彼は一年のときもとても頑張っていました。
きっとお父さんみたいな立派な外科医になりたいのかな~、なんて私は一人で創造していました。
でも去年生まれたばかりの小さい息子さんがいるので、勉強に影響あったのかもしれません。
ところで、アメリカ人ってオープンすぎるところがあるというか。
「いやー、息子が国家試験に落ちちゃて~」なんて、クラスメートの私に簡単に言っていいのかしらん。
私の夫もそうですが、私の乳がんのことを郵便配達の人にばらしてるし。
隠すことが嫌いなアメリカ人のいい所でもありますが・・・
Dには頑張って、2回目は見事合格してほしいです。
2009年8月4日火曜日
今日も夕立
私はエアコンを消し、リビングの窓を雨戸にし、反対側にある裏庭に通じるドアを開けました。
こうすると、すがすがしい外の風が入ってきます。
夫が家にいるときは絶えずエアコンが効いています。
涼しくて居心地は良いですが、日本で育った私にとって夏暑いのは当たり前。
四六時中エアコンをガンガンきかせていたら、夏の雰囲気が台無し。
今は夫が留守なので、できるだけエアコンを消しています。
夕方になると窓を開け、外の風を少し入れてみます。
外からは虫の声が聞こえたりして、涼しげな感じになるのです。
2009年8月1日土曜日
術後十八日目
それで今朝起きたのは11時ごろ。
ぐうたらな週末の始まりです。
娘が「お散歩に行きたい」といいました。
術前に30分ほどかけてのんびり散歩がてらに近くのセブンイレブンに行くことがしばしばありました。
それでセブンイレブンに売っているアイスが欲しいとのこと。
「ママは沢山歩けないから、車で行こう」というと、
「車じゃなくて、お散歩。わたし、歩きたい」とはりきっています。
「うーん、ママお腹痛いから歩いていけないよ」というと、
「えー、歩けるじゃん、こうやって・・・」といって、腰が曲がったおばあさんのような姿勢で私の前で歩いてみせます。
まさに私が術後2週間ほど、こんな風に歩いていたのです。
子供はよく観察してます・・・
それで散歩の代わりに車で近くのペットショップへ。
娘は半放し飼いになっているウサギを撫ぜることができて大喜びでした。
それからレストランでのんびり御飯をたべ、さらに海岸のほうをドライブして家に帰ってきました。
お腹に溜まった水はまだ完全に引かないものの、順調に術後の傷も回復している様子です。
今日は雨が降りそうで振らない、暑い一日でした。
2009年7月31日金曜日
術後十七日目
昼間は黒澤明監督の「生きる」を見ました。
さすが巨匠の作品。
切り口がすごいと思いました。
そして深いテーマのなかに皮肉と笑いが散りばませてあります。
また自分ががんサバイバーであることで、深く理解できるシーンも数々ありました。
午後は天気が良いので久しぶりに洗濯物を外に干しました。
そしてその後、近くのコーヒーショップへ。
少し読書して帰ってきました。
家にずっといると、何をするんでもなくコンピューターをいじったりテレビを見たりして終わってしまいます。
やはり一日に一度は外出するとメリハリがあっていいです。
お腹にまだ水は溜まっていますが、運転もできるし順調です。
夫がしばらく出張でいないので、精神的にも「しっかりしないと」というのがあるからかもしれません。
2009年7月30日木曜日
術後十六日目
鉱石とりと言っても、鉱石が砂に混じっているものを底が網になっている箱にいれて水のなかでじゃぶじゃぶやって、残った鉱石を取るというもの。
4歳ということで、水でジャブジャブするのも担当のお姉さんがやってくれていました。
子供たちはそれでもカラフルな石を拾うのが楽しいらしく、みんな黙って集中してやっていました。
おみやげは自分達で拾った石。各自プラスチックに入れてうれしそうでした。
私は午後1時ごろ、ちかくのレストランへ。
広告で$5引きのクーポンが入っていたので、行ってみました。
Silver Diner という、60年代にアメリカではやったダイナースタイルのお店です。
雰囲気はレトロでとっても良いです。
私が頼んだのはベジタリアン・ステア・フライという麵もの。
ちょっとお腹が空いていたので一口目はとっても美味しかったのですが、2口めからはちょっとしょっぱすぎる感じでした。
半分だけ食べて、残りは箱でお持ち帰り。
2009年7月29日水曜日
術後十五日
朝起きたのは9時過ぎ。
簡単にシャワーを浴び、服を着ました。
服と言ってもジーンズなどのキツイ服は着れないので、下はパジャマパンツ、上は緩めのティーシャツ。
娘を起こし、軽く何か食べさせて10時ごろ家を出ました。
最近はカツラなしで外に出ることが多くなりました。
紙の長さは3cmぐらい。
耳の後ろなどは寝癖がつくようになったので、朝チェックは必修。
ここ2-3日、鼻水がずるずる。
それで咳をしたいんですが、お腹が痛くて思いっきりできない。
どうしてもしたいときは、おへその上を押しながらすると少し楽です。
ところで再建後のおへそですが、Dr.Mに聞いたところ私の元来のおへそだそうです。
夫が言ったように一度下の組織から剥がし、後で縫いつけたみたいです。
「おへそのかたち、気に入らなかったら、ごめんね」とDr.Mに言われました。
もうツギハギだらけの体なので、おへそなんてどうでもいいですが・・・
今日の午後は雷を伴った大雨が降りました。
でも1時間ほど降ってからっと止み、夕方6時ごろにまたザーッと降りました。
今日の夜は体が暑くなる更年期障害みたいのが結構でました。夫がいると絶えずエアコンがついています。今日はなるべくエアコン切ってあるので、そのせいもあるかな。
2009年7月28日火曜日
術後十四日目
朝娘をデイケアに連れて行ってもらい、1時半には空港へ出発。
行きは夫が運転。
帰りは私が運転。
術後初めて運転しました。
昨日お腹に溜まった水を取ってもらったので、少し楽になりました。
飛んだり跳ねたり走ったりはまだ無理ですが、どうにか歩いたり運転したりといった事はできるようになりました。
Dr.Mにもらったコルセットというか腹巻をほぼ一日中つけていることにしました。
お腹にはまだ少し水が残っている気がします。
自然に吸収されてくれればいいのですが。
明日からは当分、私、娘、犬一匹っきりの生活です。
2009年7月27日月曜日
術後十三日目
4時の診察でしたが、早くやってもらえればと3時半にはオフィスに到着。
でも結局4時45分まで呼ばれませんでした。
今日最後の患者だったようです。
夫に「お前はオマケ患者じゃない、きっと」と言われました(汗)
診察室に通されて、しばらくしてDr.Mが入ってきました。
まずは胸に挿入されているマイクロフォンのワイヤーを、Dr.M素手でゆっくり引っ張り出しました。
これはまた傷みもなく、すんなりと抜けました。
銀色の細い糸のようなものの末端に、何やら1x 1.5 mmほどの黒っぽい楕円形のものがついています。実はこれがマイクロフォンということ。超微小でした。
お次は予測どうり、大きな針でお腹に溜まった水を抜いてくれました。
初めにロドケインで下っ腹に局部麻酔を打たれましたが、それはまたチクッと痛かった。
その後はぶっとい針を刺され、でっかいシリンジで水を抜いていきます。
抜いた液は約375ml。
初めは黄色くて少しにごった液体でしたが、途中から少し血が混じって茶色っぽくなりました。
まあよく抜いてもらったほうですが、まだお腹がすこしプヨンプヨンしています。
まだ50mlぐらいは残っているような・・・
Dr.Mによると、10-20%の患者さんが術後にドレインを抜いた後に私のように水が溜まっちゃうことがあるそうです。
最後の管を抜いたあとに、しばらくは体に空いた穴から廃液が漏れるという話でしたが、私はほとんど漏れませんでした。Dr.Mによると、しばらく空いているはずの穴が、私の場合早く治癒しすぎて廃液を出し切れなかったんだとのこと。
今日は家に帰ってきて、すぐに腰巻を締めました。
これ以上お腹に水が溜まると、たまりません。
それに腰巻をしていたほうが、背筋も真っ直ぐになる感じです。
2009年7月26日日曜日
術後十二日目
昨夜はなぜか2時間おきに起きてしまい、トイレに行っていました。
膀胱が圧迫されているせいでしょうか。
あんなにトイレに行ったのに、なぜか喉は渇きません。
朝起きて体重計に乗ると、昨夜よりやく1kg減。
それだけ尿の形で水分が抜けちゃったのかな。
手で押すと波打つお腹。
自分で針を刺して、水を抜きたくなります。
Neupogenを自己投与した時に使った針で、やってみようかな~と思ったけれど度胸なし。
変な所を刺しちゃって、緊急医療とかにお世話になるのもちょっとね。
明日はDr.Mとの診察があるので、その時に抜き取ってくれることを期待しています。
2009年7月25日土曜日
術後十一日目
お腹のお肉をとってもらったとはいえ、まだ太鼓っぱらです。
まあもともと痩せていないので、スーパーモデルのような完全にぺったんこなお腹になるなどとは期待していませんでしたが、なんだかプチ妊婦みたいな体型・・・
どうやら術後でお腹がむくんでいる様子。
夜、長椅子にごろんと横になったところ、お腹に変な感覚が走りました。
何かがポニョンと動いた。
ぽっこりしたお腹の上のあたりを指で押してみた。
お腹全体がぽよーんと動きました。
どうやら腹部に水が溜まっているらしい・・・
前回Dr.Mにもらった、お腹に巻くベルトと午後中3時間ほどつけていました。
ほんとうは一日一度、2-3時間ほどお腹に巻いておくようにとの支持です。
3-4日、さぼっていました。
夕方は家族でバイキングスタイルの中華料理店へ。
ここはお寿司がなかなかおいしく、毎回すこし変わったアレンジのお寿司なんかが楽しめます。
またついつい食べ過ぎてしまいました。
悟りとは
106才で大往生された宮崎 奕保さん。
NKHの「あの人に会いたい」というシリーズがありますが、たまたま6月に帰国したときに宮崎奕保 さんが取り上げているのを日本で見ました。
動画は下のリンクで見れます。
http://www.youtube.com/watch?v=F2qQN0h4ZMs
深く考えさせられることがありました。
2009年7月24日金曜日
術後十日目
6時ごろには目が覚めました。
いつものように、術後の傷の上のあたり、皮膚下の筋肉がひきつるように痛い。
なんか今日の朝は娘が早く目を覚ましてしまったようです。
6時すぎには目が開いてしまった様子。
私も夫もまだ眠いので、寝室のテレビで子供番組をつけっぱなし。
朝9時ごろに痛む体をひきずって起きました。
下に下りると半分眠ったような顔をして、娘が椅子に座る夫にコアラのように抱きついていました。
早く起きすぎて、デイケアに行く前にダウンみたいでした。
それでもイチゴなど食べさせて、10時ごろにはデイケアへ。
どうにか目もぱっちりしてくれて、一安心。
今日は学校からのメールで、新学期そうそうある実技の試験のお知らせが。
思えば一年前、ぼちぼち試験勉強をしないとと思っていたら告知され、一年休学の選択をしました。
一年前とほぼ全く同じ内容のメール。
そろそろ勉強モードに持っていかないといけません。
でもずっと家にこもっていると、なかなかやる気がわかない。
せめて普通に歩けるようになれば、コーヒーショップなんかに行って本とか読みたいな。
だから家でがんばって背筋をのばし、突っ張ったお腹を引きずりながら歩行練習をしています。
肩の力をゆるめ、背中を真っ直ぐさせ、お腹をリラックスして歩きます。
なぜかお尻に力が入ります。
そしてお腹のど真ん中に、大きな強力ゴムバンドが組み込まれているような感じがします。
それを引き伸ばしながら立ち上がります。
2-3分歩いていると、疲れてくるので椅子に座りこんでしまいます。
歩くということが結構な運動・・・
それでも3週間後の学校復帰のために、頑張ってリハビリします。
2009年7月23日木曜日
2009年7月22日水曜日
術後八日目
2-3回ほど夜起きましたが、朝9時ぐらいまで寝床でゆったり過ごしました。
今日のお昼はコンソメベースのパスタスープを作ってみました。
野菜をたっぷり入れました。
初めて作ってみたわりには、まあまあだったかな。
好き嫌いが多い夫も食べてくれました。
さて、朝起きてベットに座ろうとすると、お腹の傷跡と再建した右胸の下のあたりがつっぱるように痛みます。
日中は傷口よりも、お腹の中心の胃があるあたりが絶えずつっぱってる感じがします。
皮膚下にあるお腹の筋肉が、ずっと収縮しているかのようです。
御飯を食べた後お腹をさわると、なにやら胃が動くような感覚があります。
なんだか妊娠していたときの感じと少し似ています。
主治医のDr.Mは、これから徐々に姿勢を治していって、お腹の皮がまた伸びるようにと言っていましたが、私的には皮と下の筋肉組織も一緒に伸ばさんと、一生腰を屈めたままになりそうなのです。
*****
再建手術を終え、一つ謎があります。
それは再建後のおへその実態。
お腹の手術跡の5cmぐらい上に、なにやら縫込みがあってごちゃごちゃしているおへそがあります。横に平たくて、明らかに手術前のおへそと形がちがう。
今日は夫がそのおへそをみて言いました。
「下腹の肉をごっそりとった後、上の皮膚を引っ張ってきてつなげたんだね。
へそをいったん下の組織から剥がしとって、皮膚とご下にずらして縫い付けてあるんじゃないかな」
私的には元来のおへそはもっと下にあったような。
というか、取り除いてもらったぶよぶよの贅肉の真ん中へんにあったような・・・
それで「そうじゃないよ。これはおへそは切り取られちゃって、傷を縫う前にわざと穴を開けておへそみたく作ってくれたんじゃないの」と言いました。
でも自分でそう言ったら、何か無性におかしくなってしまった。
だって手術中に麻酔で眠らされている自分が、意見も言えない工作粘土みたいな存在で、Dr.Mに空き放題に切り刻まれたり、穴をぼこぼこ空けられたりしたかと思うと、自分が情けないというか。その情けなさと言ったら、笑っちゃうほどだったのです。
でもお腹のそこから笑い始めたら、腹部に激痛が。
傷みのために目からはボロボロと涙が。
でも笑いも止まらない。
つられて笑いだす夫に、「お願いだから、笑わせないで。あっち行って~。おねがい~」と泣き笑いしながら懇願しました・・・
笑うことがこんなに苦しいのは、生まれて初めてでした。
2009年7月21日火曜日
術後七日目
まだうまく寝返りがうてないので、体の血行が悪くなるのでしょうが、鈍い痛みが腹部を襲います。
昨日は義姉が夜の8時ごろやって来て深夜の3時ごろに家に帰っていったので、鎮痛剤を飲むために1時半ごろから2時間ほど起きていました。
4時ぐらいになってまた寝床に就きますが、なかなか眠れず。
なんだか浅い眠りを何度も繰り返していて、30分おきぐらいに目が覚めます。
自分が寝てるのか、寝てないのか分からないへんな感じがしました。
それでも朝11時ごろ起き、ヤキソバを作りました。
今日の夕方甥っ子が帰ることになっているので、せめて今日のライチぐらいは手作りで食べさせてあげたかった。
午後5時ごろ、空港に向けてみんなで出発しました。
空港のそばにあるバイキングスタイルのレストランで食事をしました。私は術後7日目で、いまだに腰の曲がったおばあさんのような格好であるいています。レストランでも人の視線が気になりました。
でも背筋を伸ばして歩こうとすると、切ったお腹のすぐ上(胃のあたり)がつっぱる感じがしてとてもいやな気分になります。仕方がないから、また腰を曲げて歩いてしまいます。産後のお腹が戻らず、いままでたるみきっていたお腹が、急に縮んだんだから体もびっくりしているようです。
これからは少しずつ、背筋を伸ばすように訓練していかないといけません。腰を曲げて歩くのって、あまり使わない背中の筋肉を使っているようで、結構疲れます。
8時30分のフライトで、甥っ子は無事帰って行きました。14歳の青春まっさかり。貴重な夏休みなのに術後の私を思いやって娘の遊び相手をしてくれました。でも両親から2週間ほど離れてくらしたので、少しは羽をのばせてくれたかな、と思ってやみません。
いろんな人に支えられているなあと感じます。
2009年7月20日月曜日
術後六日目
管を抜くときに痛いといやなので、処方されていた痛み止めの飲み薬を2錠飲んでから家を出ました。でもその薬のそうなのか、なんだか気分がさえない。頭がボーットして疲れが増してしまいました。
Dr.Mのオフィスで腹部の管を抜いて抜いてもらいました。
胸部から出ているマイクロフォンに繋がっているワイヤーはあと一週間そのままだそうです。
体を横にして横たわると、胸の下あたりが引きつる感じがします。
でも傷みは最小限。
うざいのは仕方なし。
最後の管を抜いた後も、廃液がかなり出るでしょうと言われていましたが、夕方ごろにはほとんど廃液も出ていないようでした。かるくパットを当てておくだけで何とかなりそうです。
薬のせいで頭がボーットした感じが午後中ずっと続き、午後のほとんどをうたた寝して過ごしました。
夜になると体調がかなり良くなります。
2009年7月19日日曜日
術後五日目
術前からホルモン療法のタモキシフェンは休薬中ですが、たまに更年期障害みたいに暑くなる副作用が出ます。長いガウンを着ているので、あつくなったら足元をめくし上げて対処しています。
術後は経口でデモラルという鎮痛剤とセファレキシンという抗生剤を取るように言われていましたが、今日まですっかり忘れていました。
夫が買ってきたミカンを一つ口に入れたとき、ミカンが喉に触れてむせてしまいました。
これが腹部の術後の傷にとても響きます。
仕方ないので、飲み物を持ってきてもらって喉をしずめようとします。
治まるまでは痛いけど、しょうがない。
前かがみになりながら、歩いたりすることができます。
一人でトイレにも行っています。
食欲はそんなにないけど、夫や甥っ子が作ってくれたものを食べています。
今日の午後は少し台所ですわり、おにぎりなど作りました。
夜にはどうにかシャワーも浴びました。
2009年7月18日土曜日
2009年7月17日金曜日
無事退院です
再建したばかりの胸のサポートに、クリップが前だけについたワイヤーなしのブラを付けてもらいました。
胸の中には実はまだモニター用の小型マイクが残っていて、それに繋がっているワイヤーの一部が胸部から顔を出しています。
腹部に埋めこれられたドレイン管二本はブラブラと体についたまま。
これから2-3日、家で自分で管理をし、月曜日にDr.Mのオフィスに電話を入れて廃液の量を報告し、出きればその日に取ってもらえるんだそうです。
*****
最後の担当だった看護士のエミリーにIVを全て抜いてもらい、車椅子に乗せてもらって7時半ごろ病室を出ました。
今日の夕方3時ごろから激しい雨がふり、そのおかげで交通にも影響が出たようですが、私たちが病院を出たときは綺麗に晴れていました。
家に帰っても上半身を起こした状態で寝なくてはいけないので、まずはお店で枕など買いに行くことにしました。でもたまたまお店で使えるクーポンが郵送で届いたらしいので、まずは家に。ついでに娘と甥っ子をつれてお店にいきました。
義姉は家にいて、夕飯を作ってくれるということになりました。
まずは枕など売っているお店に。みんなお店に入っていきましたが、私は車の中で待っていました。当分は前かがみで歩かなくてはいけません。それからドレインもぶら下がっているので、外出できる体制ではなさそう。
甥っ子は14歳でビデオゲームなど大好きです。枕を買ったお店のすぐ隣に、中古CDやゲームを売っている店があるので、そこに甥っ子を連れて行ってあげたらどうかと夫に提案しました。夫と甥っ子は30分ぐらいそちらで時間をつぶしました。私と娘は車の中で待っていました。
やっと家に帰ってきたのは9時半ごろ。義姉の作ってくれたスパゲティーをみんなで食べました。
やっぱり家にいれるのはありがたい事です。
少し一息つけました。
JFK ジュニア
1999年7月16日の出来事でした。
もう十年もたったの、というのが正直な感想です。
私が渡米したのは2000年の八月なので、ちょうどこちらにくる半年前になくなっています。
皇室などがないアメリカでは、このハンサムで若いJFKジュニアはアメリカの皇太子的存在でした。
生前はハリウッドスターに劣らないくらい、タブロイド誌でも何度も取り上げられえていました。
幼年時代をホワイトハウスで過ごし、平凡な人間には創造もつかない生活を送ったことでしょう。
それでも突然の飛行機事故で、39歳の若さでこの世を去った。
私も現在38歳。
同じ年代なので、とても複雑な気持ちがします。
http://www.thebearypatch.com/jfktribute.htm
地球上に住む全ての人が、いろいろな運命を背負って生まれてきます。
ある人は短い人生の中で大きな事を成し遂げてゆく。
そしてある人は、長生きをして世界で起こる様々な出来事を目撃するチャンスを与えられる。
またある人は、長く行きながら多くの人に影響を与える。
私は自分の運命について全く分かりません。
寿命の長さも誰にも予測できません。
でも最後に「良い人生だった」と思えるように、毎日を大切に過ごしたい。
多くのことを素晴らしい事を目撃しながら、他の人に役立てるような人生にできたらいいなあ。
術後三日目
そして便秘予防として下剤がIVで投与されています。
ホルモン療法薬のタモキシフェンは入院中はひとまずお休み。
退院後に再開します。
術後は便意が全然なかったのですが、下剤のおかげで昨日の夜7時ごろと朝時ごろにトイレに。
さらに今日5時前に目が覚めてから何となく便意が続きます。
必要以上にトイレに行くのもいやなので、今日の朝は下剤を止めてくれました。
やってきた看護士さんは2人の女性で、私と同じ年か5-6歳若い感じでした。
でも二人とも子供が3人いるそうです。
それで出産入院の時、やっぱり下剤を与えられて参ったことがあると話してくれました。
それで下剤ストップはすぐにオッケーがでました。
今日朝8時半ごろ、夫に電話をかけてそろそろ娘が起きる時間だと伝えました。
夫はコンピューターなどやって夜更かししがち。
いっつも2-3時ごろまで起きています。
でも私が家にいられないので、どうしても朝起きてもらって娘をデイケアに連れて行ってもらわなくてはいけません。
いつも病院に見舞いに来てくれるし、あまり無理させたくないけど、もうすぐ退院の予定なのでもう少しの辛抱。
娘も私が家にいないので、おとといの夜は家で大泣きしたようです。
でも昨日の夜、義姉に連れられて病院に来たときはケロッとした顔をしていました。
夜10時近くになると自分から「もうお家かえろう。ママ、ばいばーい」ってな感じでした。
娘もそんなに辛く思っていないかなと思うと、こちらも少し気が楽になりました。
2009年7月16日木曜日
術後二日目
相変わらず一時間に一回、血管がきちんと通っているかドップラーによる検査のため看護士さんが入ってきましたが、それに気づかず眠ったままだった事も何度かあったようです。
それでもやはり、午前中は何となく頭がボーっとしていました。
特に何もやるきも起きないので、上半身を起こした感じでベットに横たわりうたたねを繰り返していました。
朝の11時ごろ義姉から電話がありました。
甥っ子がスクランブルエッグ、夫が白米を炊いて持ってきてくれるということ。
今日はまだ何も食べていないので(特にお腹もすかないのですが)、楽しみです。
夫が2時ごろに病院に来てくれました。持って来てくれた卵と御飯がとっても美味しかった。
4時ごろにはクラスメートのKがお花をもってお見舞いに来てくれました。彼女も三年生の臨床実習等で忙しいのに貴重な時間を割いて来てくれました。
夕方7時ごろには主治医のDr.Mがやって来ました。手術部位の様子を見てくれて、ドップラーで血管の様子を確認してくれました。ドップラーでの血管音がとてもいいので、病棟にいる他の看護士さんに聞かせるように、私の担当の看護士さんに話していました。
のちほどDr.Mがレコーダーを持ってきて、ドップラー音を録音していました。教材の目的で録音しておくんだそうです。
再建した右側の胸は放射線の影響で少しいびつな形をしています。まずは今回の手術の傷の回復を待って、多少形を修正するとのことです。おそらく3-6ヶ月先に、日帰り手術みたいな形で処理できるようです。
手術も全てうまくいったようなので、Dr.Mが私の左ほっぺにかるくキスまでしてくれました(笑)。その辺はやっぱりアメリカ人の形成外科の先生らしいです。
夕方には排尿のための管も抜いてもらい、少し立ち上がってトイレに行く事もできました。モルヒネのほうも今日の朝7時ぐらいから自動投与をストップしていたようで、傷みもほとんどないので鎮痛剤に頼らなくてもどうにかなりそうです。
ドップラーによる血管音の検査も、今夜から2時間に一回になるのでまた少しゆっくり眠れるかなと期待しています。
夜の8時半ごろ、義姉と甥っ子が娘を連れて病院に来てくれました。紙に娘と私の顔の絵を描いて、持ってきてくれました。今日はデイケアの後、海に連れて行ってもらったそうで、「今日は楽しかった」といっていました。でも昨日から曇り日が続いていたので、水のほうは少し冷たかったとか。
夜は夫が病院近くにある日本料理店からお寿司を買ってきてくれました。甥っ子も日本食が大好きなので、一緒に食べました。夫と義姉はウエンディーズで買ってきたハンバーガーやフライドポテトを食べていました。娘はチリについてきたクラッカーにしゃぶりついていました。
彼らが帰ったのは9時半ごろ。主治医の話だと明日の夜には退院できるそうなので、いまから楽しみです。
2009年7月15日水曜日
手術当日と術後1日目
4時間ぐらいしか睡眠時間がとれなかったので、まだまだ眠かった!
でも5時半までには病院に行かなくてはならないし、どうせ今日1日は麻酔で眠らされているだけだからと思って頑張って起きました。
サッとシャワーを浴びて下に下りると、何か異様な音が聞こえます。
「なんだろう?」と音の出てくる方向に向かってあるいてみると何と電気式温水器のタンクから、蒸気が漏れています。すぐに二階でいびきをかいている夫に「タンクがもれてるよ!」と言うと、素早く飛び起きました。
どうやら持ち合わせの工具で漏れを止められましたが、それで時間がロスされて結局病院についたのは5時45分ごろでした。
フロントデスクで聞いてみると、手術は7時半ぐらいにならないと始まらないんだそうです。
ロビーで待っていると隣に座っていた男性の患者さんが、この病院では全ての手術が朝7時半に始まるんだと教えてくれました。
6時過ぎに私の名前が呼ばれ、手術準備室に連れていかれました。
ここで手術用のガウンに着替え、看護士さんがIVの針を入れたりしてくれました。
そして看護士さんが聞いてくる病歴などに関しての質問などに答えたり、血圧や体温の測定などをしました。
しばらくすると麻酔科の先生が入ってきました。
以前に受けたこことのある手術や、今まで麻酔等をされて問題が起きなかったかなどの質問を受けました。
そのあと形成外科の主治医のDr.Mが入ってきました。
今日の手術のマーキングをするためです。
ドナー部位になるおなかに大きくレモン形の図を描き、さらに胸のほうにはドナーを入れる場所を丸っぽい四角形のような形でマーキングを入れてくれました。
その後看護士さんが夫を私のいるプレップルームに連れて来てくれました。
私の着替えや所持品を病院がくれた紙袋にいれ、彼に渡しました。
Dr.Mはすでに夫に今日一日の大体の予定をロビーで話してくれていたようです。
7時半ごろに手術を開始し、まずはドナーとなるお腹の組織を入れる胸部を切開。
それからお腹の組織をとってきて胸部に入れ込むんだそうです。
約10時間のオペになるそうで、Dr.Mはお昼ごろ15分間のブレイクを取るので、そのときに少し夫に手術の経過を説明してくれるんだとか。
しばらくしてまた麻酔科の先生が準備室に入ってきました。
これからIVで「リラックスする薬」というのを入れてくれると言いました。
ほんの少し眠くなるかもと言われ、確かに薬を注入されてすぐに頭がボーットしてきました。
今日は朝4時起きで寝不足だったので、本麻酔をくれるまでちょっとうたた寝しようかなと目をつぶりました。
2分間ぐらい、目をつぶって休んでいたでしょうか。
目が覚めるとなにやら準備室で寝ていたのより小さめのベットに寝かされていました。
それから少し胸の辺りに手を置くと、なにかモコッとした大きな団子のようなものがふれます。
一瞬「おや?」と思いました。
「まさかもう手術が終わったなんて、ありえないよね。」
「でもこのふくらみのようなものはなんだろう。」
でもうたた寝からさめた頭は、まだまだ眠い。
いろいろと考えるのも億劫だったので、もうひと寝入りしてから考えようと思って目を閉じました。
次に目が覚めたのは病棟の個室。
これはやっぱり術後だよ・・・ね、と思いました。
でも手術室に向かった記憶等、まったくありません。
なんだか狐にばかされたような気もちでした。
でも、たしかに胸のふくらみがある・・・
それから、おおお。お腹がへこんどる。
後で夫に聞いたのですが、私が手術室にいたのは約11時間。
放射線療法を受けた右側の胸の癒着がひどくて、組織を剥がしたりするのに時間がかかったとか。
確かに左がわのおっぱいは綺麗に出来上がったみたいですが、右側はちょっといびつです。
主治医の話によると、後で簡単な処理をして形を調節するらしいです。
初めから全くもとの形になるなんて期待はしていなかったので「こんなもんかな」という感じです。
傷みはモルヒネ・ポンプを使っているので、なかなか良くコントロールができています。
胸のほうは全摘以来、皮膚にほとんど感覚がないので痛みもありません。
体を動かしたり咳をする時に痛むのはドナー部分をとってきたお腹のほう。
でも術後1日目の午後には、ベットで静かにしている分はほとんど傷みを感じなくなりました。
手術前日の深夜から絶食が続いていたので、術後目が覚めたときは喉が渇いてしょうがなかった。
看護士さんにたのんで、ジンジャーエールを持ってきてもらいました。
それがまた美味しいこと!
夜は特に食べ物は口にせず、ジンジャーエールを5-6缶のんだでしょうか。
さて、術後つらかったのはお腹の痛みと「眠れないこと」。
私が今回うけたDIEPフラップは、お腹の組織を血管付きで取り出してきて、胸の中にある血管につなぎ合わせるというもの。それで血管がきちんとつながっていないと、移植した組織が壊死してしまうので、30分に一回、ドップラーという機会で動脈のパルスをチェックするのです。術後24時間、夜も容赦なく30分に一回看護士さんがやってきます。再建した胸にプローブのようなものを当てて検査するので、ガウンのボタンを外したりしなくちゃいけない。薄明かりといはいえ電気もつけられるので、やっぱり目が覚めてしまいます。
30分おきに起こされるので熟睡できないし、やっと看護士さんが行ってくれたと思えばIVの機械がピーピーなるし。
それに寝たきりの患者さんの血行を良くするために、ベットが膨らんだり縮んだりを繰り返すとき、ぐわーと大きな音がします。
まったく寝た気になりません。
テレビをつけても集中できないし。
せっかく持ってきた本も読めない。
DVDも見る気にならない。
朝もうとうとをずっと繰り返していました。
お腹の傷も痛いので、おきてはモルヒネの追加ボタンを押し・・・
ある時、ふと目をさまして目の前の壁に飾ってある額縁の絵をみたら、なんか絵が下に向かって落ちてゆく。
眼球が勝手に上下運動しているようです。
これはまずいと思って目をつぶると、モザイク状のタイルのような様々な色の光がみえて、また「やばー、私ってばハイになってるかも」とあせり、結局また無理やり眠りにつきました。
そんでもってモルヒネのやりすぎか、日中は気持ち悪くなったりして。
現在はお腹の痛みもほとんどないので、余分にモルヒネボタンを押すのはやめました。
ただし機械が自動的に一定量のモルヒネをIVで投与してくれています。そのおかげで傷みがコントロールされているんでしょうけど。
術後1日目のお昼過ぎには夫が病院にお見舞いに来てくれました。
お昼を病院内のカフェテリアで頼んだけど、まずくてほとんど食べれなかった。
変わりにグレープジュースなどを沢山のんでいました。
午後の4時半ごろ、看護士さんが2人来てくれて術後初めて椅子に座らせてもらいました。
お腹に大きな傷があるので、前にかがむようにして座っていなくてはいけません。
ベットに寝てるときも完全に仰向けになると傷が開いてしまうため、上半身を高くして寝ています。
椅子には4時間ぐらい座っていたでしょうか。7時ごろには義姉、夫の甥っ子が娘をつれてお見舞いに来てくれました。それから元同僚の友達と彼女の旦那さんも。少し椅子に座っていたら、さらに元気が出たみたいです。術後の肺の機能をよくして肺炎などの予防になるInitiative Spirometer(動機付け肺活量計)を渡されていました。ベットで寝てるときはどう頑張っても1000mlぐらいしか行かなかったけど、椅子に座ったことで2000ml以上まで肺活量が上がり、目標の1500mlを優に超すことができました。
義姉と甥っ子は娘を連れて9時ごろに家へ。
夫はしばらく私の病室にいてくれたのですが、10時ごろ義姉から急に電話が。
どうやら娘が急に泣き出し、止まらなくなったということ。
私が電話に出て娘と話をしました。
そしたらこの前買った浮き輪がしぼんじゃって、膨らまして欲しいと泣いていたようでした。
少し電話で話しをしたら、落ち着いてくれたようでした。
夜遅くなって疲れているのもあるんだろうけど、やっぱり私が側にいてあげられないのが悔しい。
すぐ夫に家に帰ってもらいましたが、やっぱり一刻も早く退院したいです。
やっぱり家が一番。つくずく思いました。
2009年7月13日月曜日
明日手術です
今夜は深夜以降、食べ物はおろか水も飲めません。
現在、夜の9時半をまわったところですが、10時ごろに自分で作ったお寿司を食べようと思ってます。
明日の朝5時半までに病院につくようにと言われているので、明日は4時起きです。
早く寝られればいいんですが、どうかなあ。
でも寝不足でも、約半日麻酔で眠らされるからいいのかしらん。
やっぱり心配なのは娘です。
私がいなくて寂しがらないかなあって。
でもまずは3-5日の辛抱。
またドレインぶらぶら状態で元気に退院してきます!
*****
今日は帰国したときにインターネットで予約注文しておいたポニョのDVDが届きました。
母が日本からこちらに転送してくれました。
音声は日本語のみですが、英語字幕が出るように設定できるので、娘、夫、甥っ子と4人でみました。
可愛くって綺麗な作品でした。
特にポニョの表情がコミカルで可愛かった。
娘も大喜びでした。
入院前に一緒に見れて良かったです。
2009年7月12日日曜日
ウオーター・パークへ
波のプールやチューブ型の大型すべり台などがあって、かなり楽しめます。
私はカツラなしのモンチッチのような髪型で、胸にパットも入れずペッたんこの胸で堂々と水着を着て行きました。
明らかに乳がん患者なのがバレバレだったのでしょうね、結構人と目が合いました。
それからロッカーのキーを借りようとレンタル・カウンターに立っていたところ、3人の小学生ぐらいの男の子が後ろにとおりかかりました。そのとき「Doesn't she look like a man? (あの人、男みたいじゃない)」と言っているのが聞こえました。私のことかなあ、と一瞬思いました。確かに野球部の男の子みたいな髪型で、女ものの水着きているけれど胸がペッタンこ。知らない人から見たらへんてこな格好かもねえ。
それでも私は気にしません。
乳がんになったけど、別に悪いことしてないもんね。
堂々としてやろうと、反対に思いました。
久しぶりの水遊びは楽しかったです。
でも不覚にも愛用のデジカメを水に落としてしまい、壊してしまいました・・・
明日にでも新しいのを買いに行こうと思っています。
*****
今日は母親から誕生日おめでとうとのメールが入っていました。
病気の事に関しては「人は誰もが何か背負っているものだから」と書いてありました。
たしかにそうだな、たまには言いこというじゃん、なんて思いました(微笑)。
2009年7月10日金曜日
サプライズ!
娘も私も帰りの車で眠ってしまいました。
まだ少し時差ぼけの影響で日中眠くなってしまいます。
夕方は義妹が外食しようというので市内にあるアイリッシュ系のレストランへ。
義妹の旦那さんと息子は、一足先にレストランへ行っているとのことで、夫、義妹、娘との4人で6時半ごろ予定のレストランへ。
レストランに入ってすぐの大きなテーブルに、見慣れた顔が・・・
なにやらクラスメートの子たちが5-6人、座ってこちらを見ています。
一瞬「まずい!」と思いました。
だってどうせ内輪だけの外食なので、病院に行ったったときの楽な服装で着替えもせず。
胸にパットもいれず、カツラもつけずだったんです。
もーどうにでもなれの格好だったのに、学校の友達に見られるとはなんという不覚!と思いました。
さらに「うーん、私を差し置いてみんなでこんなとこでディナーですかい」と思っていると、みんなが立ち上がって私のほうにやってきて「お誕生日おめでとー」ときた。
私は「????」状態。
「えーっと、私の誕生日は12日なんだけどなあ。今日は9日じゃない?」などとほざいてしまった。
結局はこれ、私の誕生日のサプライズ・パーティだったのです。
義姉の旦那さんは仕事でDJをやっているのですが、レストランにあるステージにカラオケまでセットしてくれて。
レストランの奥にはチョコレート・フォンジュと大きなバースデーケーキが。
でも臨床実習で忙しいなか、みんなが集まってくれたのがとても嬉かった。
以前働いていた病院の元同僚も一人駆けつけてくれました。
後で聞いたらここ1-2日で全てアレンジしてくれたらしく、みんな急なのに来てくれたみたいです。プレゼントも彼らが2年生の時に使ったキストの使い古しや、「二年生の勉強のアドバイス」と題して描いてくれたメモなど。きっとプレゼントを買う暇もなかったんだと思います。でもお金をかけなくても皆が私を思ってくれる気持ちがしっかり伝わりました。蛍光ペンで線があちこち引っ張ってある参考書をプレゼントされるなんて、メディカルスクールじゃなければ味わえない事かもしれません(笑)。
アイリッシュのレストランなので、「チキンと長ねぎのパイ」というのを頼みました。
これがすっごく美味しかった。
カラオケも用意してくれたので、私も簡単なのを3曲ほど歌いました。
忘れない夜になりました。
みんなで病院へ
実は夫の甥っ子がこちらの病院にかかっているので、2年前に骨折したかかとの再診が目的でやってきたのです。
昨日は私も同じ病院で腫瘍内科医のDr.Lと放射線科のDr.Nの診察があったので、義妹、甥っ子、夫、妹とみんなそろって病院へ。
私の最初の診察が1時だったので、娘を義妹に預けて夫と腫瘍内科のクリニックへ。
ホルモン療法を始めて1ヶ月ほどたつので、そのフォローアップでした。
更年期障害のような症状が稀に出るぐらいで、特に気になる副作用が出ていないことを告げました。
実はアメリカでは術後の画像スクリーニング(CT、骨シンチ等)は標準化されていません。
調査結果などでは画像スクリーニングをして転移巣を早く認めたところで、生存率が改善するものではないそうです。だから基本的には症状が出てからCTなどの検査をして再発してないか確かめるんだそうです。
ただ私は年齢もまだ若いし、ステージもIIIAなのでCTを一年に一回とってもいいのではないかと言われました。ただしDr.Lは来月に私の病院を去ることになっているので、詳しくは次に担当になる主治医と相談して下さいとのことです。
まあ化学療法など終了しているので、くぎりはいいんですが、やっぱり主治医が変わるというのは少し複雑な感じがしました。
次にくる先生はデューク大学でフェローを終えたばかりの優秀な先生らしいのですが、気が合う人だといいなーと思います。
その後、2時半ごろに放射線科へ。
実は放射線科の主治医だったDr.Mも、この病院を後にしたばかり。今日は新しい主治医のDr.Nが見てくださいました。Dr.Nは以前にもDr.Mの代わりに診てくれて、病気の事意外にも学校や進路のアドバイスまでしてくれてすごく良い先生です。
Dr.Mも優秀な先生でしたが、どちらかというとかなりドライな人でした。あまり無駄話とかしない人。Dr.Nはとっても気さくな方で、私の父の病状なんかの話も聞いてくれます。だから新しい主治医がDr.Nになったときは嬉しかったです。
今日は放射線療法した左側の胸に、2箇所ほど硬く触れるところがあるので質問してみました。するとおそらく放射線でダメージをうけた脂肪か筋肉組織だろうとのこと。手術や放射線のあとは思いがけなく治療部分が変化します。やっぱり新しい自分の体を良く知っておくのは大切だな、とつくずく思いました。
腫瘍内科と放射線科両方とも、次回の診察は9月か10月になります。
2009年7月5日日曜日
独立記念日
2009年7月3日金曜日
Dr.M との診察
基本的にはPre-Opといって、手術当日の予定や手術前の注意事項などを確認するためです。
再建の手術日は7月14日。
もう少しのばしても良いのですが、手術後は3-5日間入院。そして完全復帰まで4-6週間かかるのだとか。8月に学校に復帰した後は手術して完全に回復するまでゆっくりする時間がとれそうもないので、思い切ってこの夏手術を受けることにしました。
診察の際、放射線治療のために右側にできたかさぶたのようなもの (keratosis) があるのを指摘されました。それで手術日まで毎日、クリームを塗って手入れをするようにと支持が出ました。
それから最近気になっていたのは放射線の後に厚ぼったくなってしまった手術跡の右下の部分。皮膚の下に硬いしこりのように触れることもあります。それから右脇の下の前のあたりにも硬いしこりのようなものが触れます。Dr.Mによるとこれは放射線によって焼きついてしまった脂肪組織とのこと。同じくマッサージすることで改善されるそうです。
今日はいろんな角度から写真も取られました。
さあ、2週間後にはどうなっていることやら。
お約束です
私の住むアメリカ東海岸は、日本と現在13時間の時差があります。
すなわち昼と夜が全く逆転してるんです。
大人だったら日中は眠くてもうたた寝するぐらいで頑張って起きていて、夜になったらガーっと寝て時差ぼけ解消を自主的に治していくことができますが、小さい子供はそうは行きません。眠くなかったら寝ないし、疲れていれば誰が何と言おうと眠ってしまいます。
娘は今日の朝6時前に起床。
そして午後の3時、私が形成外科医のDr.Mとの診察があったので車に乗っていたら眠ってしまいました。そして起きたのは夜の10時。
現在午前5時ですが、私も娘も目がパッチリ。
しょうがないので日本で録画した子供番組を見ています。
2009年7月2日木曜日
丸一年を迎えました
時差ぼけの関係で、私も娘も6時半ぐらいに目がパッチリ覚めました。
外はまぶしいばかりの晴天です。
そして今日は私にとってある意味新しい出発の日。
実は昨日(7月1日)は私の告知の日でした。
昨日は1日中、飛行機を乗り継いでアメリカに帰ってきました。
成田を出発したのが7月1日の午後3時5分。
そしてアメリカの最終目的地に着いたのも7月1日の午後7時ごろ。
つまり私にとって、7月1日は24時間以上あるちょっと特別な日でした。
一年たった今、自分が元気でいることに深く感謝した1日でした。
髪の毛も1.5cmぐらいに生えそろい、モンチッチみたいですが(古い!)ベリーショートぐらいの長さがあります。
今日はカツラなしで、堂々と外に出てみようかなと思います。
あっという間の4週間でした
日本にはまる一ヶ月いたのですが、正直言ってあと3ヶ月ぐらい居たかったです。
いつもはうっとうしいなと思う梅雨も、今回は心地良くさえ思えました。
特に静まりかえった深夜にシトシトと降る雨には、心の底から癒されました。
今回は娘を連れていろんなところに行きました。
4歳になったので、行動範囲が広くなったなあと思いました。
そして今回のハイライトの一つは術後3週間もたたないというのに、会って下さったお友達の小梅さん。
じつはブログを通してお知り合いになったお友達に会うのはこれが初めてでした。
「どんな方かなー」と思いきや、小梅さんはとってもチャーミングで笑顔のかわいい方。
話題は病気のことが中心になると思っていたのですが、家族のことや生活のことなどなど、いろいろなお話ができました。
そして医療の話題ではいろいろと熱く語ってくださった、立派なナースさんでした。
小梅さんは「何のとりとめのない話でもいい、ただずっと一緒にいたい」と思わせてくれる方。
一緒にいるだけで癒されるんです。不思議な方だなーって思いました。
お会いしたのは品川にあるエプソン品川アクアスタジアムで、ランチと水族館のセットという素敵なプラン。
レストラン内は水槽に囲まれた中で優雅にランチ。とっても美味しいお食事でした!
そして水族館ではイルカとアシカのショーを一緒に見ました。
娘も大喜び。
アシカのショーが終わってみんなで階段を下りたところで、娘がふっと小梅さんの手を握って歩こうとしたのが印象的でした。いつもはシャイな娘が本当に自然に、小梅さんの手を握ったのです。ちょっと不思議な瞬間でした。
術後間もないのに、私と娘におみやげまで用意してくださった小梅さん。
私には素敵なピンクの扇子セットとかわいい四葉のクローバーのハンカチを、娘にはすっごくキュートなハンドバック、メモ帳セット、はんかちをいただきました。どれも末永く愛用させていただきます!
2009年6月23日火曜日
たった三時間の自由
実は私のクラスメートのフィアンセの家族が、こちらに住んでいます。
高校生になる妹さんがいるというので、今日はその人に娘のベイビーシッターをたのみました。
やっとこさ得た三時間だけの自由です。
この三時間でいったい何をしようかと、1週間ぐらい前から考えていました。
そしてまずは今回、必ず行きたいと思っていた場所に行きました。
市内にあるモスバーガーです。
フライドポテトのSとホットウーロン茶を注文し、階段を登って二階席に。
ちょうどほぼ一年前、私は同じお店の同じ席に腰掛けていました。
その時の注文はフライドポテトのS,グリーンサラダ、ウーロン茶でした。
7月1日に告知を受け、夫がアメリカから急きょ駆けつけてくれた数日後の事でした。
逃げ道のない、暗く深い穴のどん底に落とされたような気持ちでいた自分。
でもどうにか自分の病気の事を理解しよう、負けずに病気と闘おうと必死でした。
一番つらかったのは、自分の将来が読めなかった事。
医者でも、占い師でも誰でもいい。私が将来どういう運命なのか、教えてくれる人がいればとどんなに気が楽になるかと思った事か。
でも今日はこのモスバーガーの椅子に腰掛けて、一年間の治療を終えた私がいました。
そして、もし一年前ここにいた自分に声を掛けれるとすれば、何と言うだろうとふと考えてみました。
結論は・・・「何も言わないでほっておく」
この一年、肉体的にも精神的にも辛い事があったけれど、「乳がん」という病気をしたことで貴重な体験をし、いろいろな事を学びました。そして素晴らしい人にも沢山出会えました。
自分で言うのも変だけど、この一年で私も少し人間的に成長しました。
もし一年前の自分が、今日私がこうして元気にいる事を知っていたら、今のように少し成長した自分に会う事ができなかったでしょう。
そしてこれからもどのような未来が待っているのか、全く予想もつきませんが、それでいいのだと気づきました。
未来が分からないからこそ、今生きている一分一秒を大切にできる。
絶えず身を引き締めて生きていくことができます。
何だかんだいって、人生はうまくできているのかもしれませんね。
さて、モスバーガーにいたのは1時間ほど。
本当はちょっと美味しい物が食べられそうなレストランにでも行って、一人っきりの贅沢な時間を過ごすのもいいなあと思っていました。
でも結局足を伸ばしたのは近くのモアーズにある平坂書房。
1-2冊本を買って出てくるつもりが、一冊の本に目がとまり立ち読みしてしまいました。
その本の名は「アシュリー ~ All about Ashley ~」
カナダにすむ、プロジェリアという病気に犯された14歳の女の子が書いた本です。
プロジェリアの患者さんは普通の人の10倍の速さで加齢が進み、平均寿命は13~14歳と短い。
アシュリーちゃんは今年の4月に17歳の若さで他界しています。
彼女は幼い時から自分の寿命が短い事を知っていました。
そして人生の一分、一秒を思いっきり生きたのです。
17歳という若さで、おそらく多くの大人よりも人の一生のうち何が大切なのか深く理解していたことでしょう。
私自信、癌を告知されてから、命のはかなさと美しさについてより深く考えるようになりました。
そしておそらく自分が健康であったら、今の境地には達していなかったでしょう。
ということで、貴重な3時間の自由時間は軽いお茶タイムと本屋での散策と立ち読みで終わってしまいました。でも自分を発見できた時間、そしてとても幸せなひと時でした。
2009年6月19日金曜日
上野動物園
心臓血管外科のDr.Aとの診察がありました。
いつもは血液検査やら胸部レントゲンやらと、各種の検査を終えてから先生との診察があります。
それで検査時間や待ち時間を含め、朝入っても病院を出れるのは午後の3時とか5時とか。
でも今日は検査がなく、11時半から診察となっていました。
病院のハートセンターの受付に行ったときは5~6人待ちで、30分はかかると言われていたものの、15分ぐらいで先生に診ていただけました。
診察もとくに大それたことはなく、来週ある検査入院の事や手術までの予定などの話をして終わりました。Dr.Aは父も始めてあったと言っていましたが、とても話やすい良い先生でした。顔もけっこーイケメン!
診察も早くおわり、病院内で軽く食事をして病院を出たのは1時ごろ。
父は神田にある事務所に寄って仕事をするというので、私は母と娘の三人で久し振りに上野動物園に行ってきました。
平日なのでかなりすいていました。
上野動物園も私が学生だったころに比べるとかなり変わりました。
特にジャイアント・パンダがいないのは、びっくりでした。
やっぱり上野にパンダがいないのは少し寂しいですね。
娘はオリの中でブラブラと体を揺らしている手長ザルを見て大喜びしていました。
私は一部ガラス張りになった壁のすぐそばまで来ていたヒグマを見れたのが最高でした。
4時半には父の事務所に行く予定だったので、上野動物園を出たのは4時ごろ。
入園料も特に高くないので(私は大人で600円。母は高齢者扱いで300円。娘は無料でした。三人合計900円はまずまず)、散歩がてらに園内を歩けたのは良かったです。
母も最近ずっと父の付き添いなので、久し振りに動物園などいって気晴らしが出来た様子でした。
2009年6月18日木曜日
ディズニー・シー
以前アメリカの同じ市内に住んでいた、日本人のご家族がご一緒してくれました。
娘は「ミッキーのおうちに行く」と言ってはしゃいでいたのですが、ディズニー・シーは話に聞いていた通り、どちらかと言うと子供向きというより若い大人向きですね。
ディズニー・ランドに比べて全然ミッキー・ミッキーしていないです。
私は風景とかはディズニー・シーのほうが好きです。なんかとっても落ち着く雰囲気です(特に今日は平日で雨の予報だったので、すいていました)。でも娘はアトラクションとか怖かったらしく、アドベンチャー系のは乗らせたものの半べそをかいたりしておりました・・・。やはり4歳児にはまだディズニー・ランドのほうがよさそうですね。
さて、放射線治療を受けた右胸が最近また変色してきて組織が少し厚ぼったい気がします。
鏡に映して見てみると、最後の5日間にブースターとして照射した手術跡の周りの部位が赤くなっています。放射線治療を終えて3週間以上たつのに、まだ放射線の威力が残っているのでしょうか。
幸いにも私の胸には皮膚感覚が殆ど残っていません。
通常の皮膚ならこの赤みで痛みを伴うと思うのですが、全く何も感じません。
ただ見た目はちょっとグロいですけれど。
2009年6月16日火曜日
帰国後2週間過ぎました
もう滞在時間半分超過ですが、特に特別な事をするんでもなく、その辺をフラッとするだけで大いに日本を楽しんでいるうなです。
故郷に帰って来たとはいえ、私にとって日本にいることは非日常。
一分一秒が何ともいえない、素晴らしい時間です。
・・・とはいえ、生きているとハプニングが起きるのはつき物。
昨日はちょっと思わぬ事が2つほどおきました。
一つ目は昨夜、友達が北海道土産にくれたハイチューを食べていると、左上奥にある義歯がぱっコーンと取れてしまいました。保険がない私にとって、仮セメントでつけてもらうにしてもきっと5000円ぐらいかかってしまうのではないかと思い、面倒なことになったと思っていたら、今度は娘がお風呂で滑ってあごを切ってしまい、緊急病院に行くはめに。
どうやらお風呂ですべり、湯船に顎があたったようです。
傷口は5-7ミリ程度ですが、なにやら皮下脂肪のような組織が顔を出していました。
絆創膏を張っておくだけではまずそうなので、兄の運転で近くの緊急医療センターへ。
幸いにも傷はあまり深くなく、テープで張り合わせるだけで縫わなくてもよさそうとのことでした。
診察費は全て自費で13710円なり。
今日は私の歯の治療と娘の傷のフォローアップで形成外科へ。
でも大事にいたらなくて良かったです。
私の歯も娘の顎の傷もどうにかなりそうです。
2009年6月10日水曜日
関東地方も入梅
昨夜からシトシトと降り始め、今日は午前中は雨。
今週のはじめは天気もまあまあ良かったので、月曜日は横浜にあるアンパンマンミュージアム、火曜日は三浦半島にあるソレイユの丘と、子供が喜ぶ系の場所に行きました。娘はどちらも大喜びで、最後は「帰りたくない」と半べそでダダをこねられる始末。
昨日の水曜日は父親の診察日だったので、両親と娘の4人で東京へ。
診察して下さったのは感染病専門のDr.Mでした。
お若い方で、私の質問にも全て親切に答えてくださいました。
父は今年の夏に78歳になりますが、まだ自営業で仕事をしています。
Dr.Mには「お若いですね」とか「やはりお仕事されている方は目つきがちがいますね」と言われ、少し父は自信をとりもどした様子でした。
血液検査なども、一週間前にくらべ良い方向に向かっているようです。
このまま無理をせずに現状維持で手術が受けられればと願っています。
さて、午後になって雨もあがり少しおてんとうさまも顔を出しました。
今日は一日遠出もせず家にいますが、これから娘をつれて近くのスーパーに散歩がてら買い物に行きます。
たまにしか帰れない日本。
スーバーの買い物一つにしても私にとっては新鮮で、楽しい時間です。
2009年6月6日土曜日
もうすぐ一週間
実家にある家のパソコンを使って久しぶり投稿していますが、なにせこのパソコンのインターネット接続スピードが遅い!それでついつい投稿が億劫になっていました・・・
今回は一週間ほど前に退院した父のこともあって、かなり家でおとなしくしています。
今は丁度運動会の季節でしょうか、先週のはじめ頃私の通った小学校の方からなにやら音楽などが聞こえていました。校歌が流れて来た時はほんとに懐かしい思いがしました。
ここ一週間は水曜日に高校のときの親友と軽く夕飯を食べに行った以外は特に遊びにもいかず。
たいていは一日中娘と家にいて、昼過ぎごろ近くのスーパーに散歩がてら買い物に行き、午後に暇つぶしにのんびりお風呂に入るといった感じです。
なんだかこの2-3日は小雨日和のようですが、先週はなかなか天気も良く幸いでした。
ほぼ毎日行っているスーパーマーケットに行く途中、公園があります。
この地域は最近開けた住宅地。私が子供の頃は山だったところです。
娘が公園があるのに気づき、遊びたいというので少し寄りました。
告知された一年前、同じ場所に来たことを思い出さずにいられませんでした。
まだ精密検査もできず、ただ細胞診の結果悪性とだけ分かっていた辛い時期でした。
アメリカから急きょ駆けつけて来てくれた夫とベンチに座り、彼の肩を借りながら3歳の無邪気な娘が玩具で遊ぶのを見つめ力なく泣いていました。
それから約一年。
私が座っていたベンチが、そのままそこで待っていてくれました。
今は4歳になった娘が遊ぶ姿をみつめながら、またそこに腰掛けました。
複雑な心境でしたが、自分も一年で少し成長したかなと思いました。
そして今現在、命があることに深く感謝しました。
また来年、再来年とこの場所に帰ってくるとき、自分は何を思うのでしょうか。
*******
私と娘が帰国した6月1日、大西洋にエアフランスの旅客機が墜落しました。
自分が飛行機で帰ってきた日であったため、かなりショッキングなニュースでした。
本当に生きているということは紙一重です。
どんなに健康でもあっという間の事故で尊い命が一瞬にして奪われてしまう事がありうる。
とても切ない気持ちになります。
2009年6月1日月曜日
無事帰国しました
出発日の5月31日の朝はぎりぎりの7時半に起床。
地方空港から9時初のフライトに乗らねばいけなかったので、すこしドタバタしました。
でも無事間に合ってホッ。
デトロイト行きの国内線は1時間ちょっとで楽勝のフライトでしたが、やはり長いのはデトロイトから成田の便。
13時間ほど飛行機に乗っているのはつらい!
今回はノースウエストで帰って来ましたが、ラッキーなことに半分以上空席でした。
私と娘は一番端っこの3つのシートを二人で独占。
肘掛を上に上げ、二人で横になることもできました。
娘は2時間と4時間の2回に分けて眠ってくれました。
私ははじめの1時間ほど眠れただけで、後はなぜか目が覚めてしまいました。
機内ってしばらくするとスナック、夕食など出て映画など上映されたりしますよね。
その後の昼寝はしばらく寝たな~という感じで、もうそろそろフライト半分ぐらいかなと思いました。
フライトアテンダントのお姉さんにあとどれくらいで到着地かたずねると「7時間」と帰ってきました。
うーまだ半分以上ある、と思ったときはしんどかったです。
でもどうにか13時間のフライトが終わり、成田に到着しました。
機内では「健康状態質問票」たるものが配られ、インフルエンザの症状がないかチェックするようになっていました。
成田到着後は席に着いたまま、手荷物を上の手荷物入れから出さずに待機するよう言われました。
しばらくしてマスクを着け、青いラブコートを着た人が2人入ってきました。
なんか通路を歩いて機内を簡単にチェックしただけで出て行ってしまいました。
入国審査の前に、検疫所の審査所を通りました。
機内で記入した質問票を提出しました。
特に引っかかることもなく、これがうわさの水際対策なのかなあと思っただけでした。
やっぱり帰国するのはうれしいものです。
「おかえりなさい」の表示をみて、おもわず娘に「日本にやっと帰ってこれたねー、良かったねー」と私。
帰りはバスに乗りました。
ずっと高速だったので、とても楽でした。
途中にベイブリッジを通り、遠くに横浜みなとみらいが見えました。
さらに雲の隙間から太陽の光がもれ、扇型にひろがっていました。
私が大好きな光景です。
帰国した日に見られるなんで、最高でした。
なんか横浜の空が私達を歓迎してる、と勝手に思い込むことにしました(笑)。
最後にタクシーで家に帰ってきました。
一年ぶりの実家です。
やっぱりいいものですね。
ちなみに今朝の2時をまわったところ。
時差ぼけで深夜に目が覚めて寝れなくなってしまいました。
娘は熟睡中。私も無理して寝ておかないと、パワーアップした娘についていけなくなるので頑張って無理やり寝ます。
2009年5月31日日曜日
DCへ。明日は日本へ。
夫が義姉の車を直してあげていたのですが、それがやっと終了したので車を届けるためです。
午後3時半ごろ出て、ついたのは7時半ごろ。
義姉がハンバーガーを作ってくれたので一緒に食べ、義姉が使っていた私たちの車と交換して帰って来ました。
家についたのは深夜すぎの1時。
明日日本に発つので、それから荷造りをしました。
明日の朝9時発、デトロイト経由で日本に帰ります。
次のアップデートは日本から。
それでは皆さん良い週末を。
2009年5月29日金曜日
春の天気は気まぐれ
病院でのアポイントがなかった昨日は、朝も遅くまで家族みんなで寝ていました。
ズルズルと寝床にいてやっと起きたのは10時半すぎ。
お昼すぎまでズルズルと家で過ごしていましたが、ずっと家にいてもつまらないので、娘を連れて家から車で一時間ぐらいのところにある遊園地へ。 一年パスがあるので、ガソリン代以外はお金がかかりません。ちょっと遠めの公園に行くような感覚です。子供は遊べるし、私はなにかと歩くはめになるので良い運動になります。
朝は晴れでしたが、お昼過ぎから曇りに。
さらに平日だったこともあって、遊園地はかなりすいていました。
パーキングもいつもは入園口から離れたところに停め、トラムに乗っていくのですが、今回は入園口のすぐとなりに駐車。
いつもどうり、子供向けのアトラクションで子供を遊ばせました。
すいていたので、乗り物もほとんど待たなくて乗れました。
中には乗客が娘一人だけの貸切で乗れた乗り物なんかもありました。
途中で夕立のような雨にあいましたが、すぐ止んでくれて晴天に。
本当にころころと変わりやすい天気です。
遊園地には3時間ぐらいいて、サクッと帰ってきました。
2009年5月27日水曜日
そしてホルモン療法開始
10日ほど前うっかり受診をすっぽかしてしまったので、今日はきちんと行かないと(当たり前ですが)と思い早めに家を出ました。
病院には15分ほど前に。余裕の到着でした。
今日は院内薬局に薬をとることが前もってわかっていたので、まずは薬局へ。
実はこの薬局、多くの患者さんが待っているので長時間待たされるのです。
いつも1時間はまたされます。
それで今日は先を見越して先に整理番号をとってきました。№368番。
そして直接腫瘍内科のクリニックへ。
15分ほど早い到着だったので、しばらく待たされるのを覚悟で待合室で本を読み始めました。
でもすぐに看護士さんがバイタルを取る部屋に通してくれました。
バイタルをとった後、また待合室で少し待っていましたが5分ほどで診察室に通されました。
しばらくボーットしているとDr.Lが入って来ました。
まずはこの前アポイントのことをうっかり忘れてしまったことを誤っておきました。
「まだあの時はあなたも放射線治療中だったからね~。いいのよ別に」と言ってくれました。
最近の体調を聞かれ、なかなか調子はいい事を伝えました。
でもわきの下の皮膚が崩壊してきて、傷口も広がってきていることを言うと「放射線科の先生に相談してみて」との事。
一連の診察をしてくれて今日から始まるホルモン療法の話になりました。
私の場合閉経前なのでタモキシフェン(ノルバデックス)単独でひとまずは5年間、服用していきます。
現在生理がとまっていますが、もし戻ってきた場合はゾラデックスで卵巣機能を止めてくれるそうです。理想としてはこのまま閉経になってしまうことだそう。
タモキシンの副作用として更年期障害の症状。それから稀ですが血栓ができてしまうことがあるので、
胸の痛みや手足の倦怠感など、何か新しい症状が出たら受診するように言われました。それから稀ですが深刻な副作用として子宮がんの羅漢率が多少なりとも上がること。もし多量な出血があれば検査をしてくれるようです。
それから頭痛、物が二重に見えるなどのとても稀な副作用があるのですが、Dr.Lは過去2-3年のうちこれらの副作用を示した2人の患者さんを扱ったそうです。「念のため」ということで教えてくれました。もし副作用が強すぎてタモキシフェン服用を諦めざるを得ない場合はそうなるか尋ねると、ゾラデックスとアロマターゼ阻害剤を使うという手があるということ。
Dr.Lの診察を終え、次に放射線科へ向かいました。
わきの下の傷口のケアに関して相談に行くためです。
この病院では何か問題が生じたり質問があったりすると、担当の看護士さんに予約なしで会う事ができます。私の担当のミッシェルは、傷口をみて「皮膚は向けてきているけど、感染などの起こっているようでもないし、治る過程みたい。これから白っぽいところも赤くなってきて、治っていくはずですよ。」と言っていました。
ネオスポーリン(処方箋なしで普通のお店で買える抗細菌クリーム)を塗ったほうがいいか尋ねると、帰って皮膚がただれてしまう恐れがあるので薦められないとのこと。代わりに火傷の傷に塗る抗細菌クリームの処方箋をDr.Mを通して出してくれました。
傷口をカバーするシートも余分に2枚もらい、放射線科を後にしました。
次に院内薬局へ。
基本的に2階の車庫へと続く大きなメインの廊下が待合場所となっています。
受診前に受付番号を取っていたので、ほとんど待たずに薬をもらえました。
薬局についたとき表示されていた番号は363番。
計算どうりです(ニタ~)。
自分の番号が呼ばれたので8番のカウンターへ。
まずはファーマシー・テクニッシャンの人に妊娠している可能性があるか、または授乳中であるか聞かれました。
答えは当然ノー。
次に前まで飲んでいた抗鬱剤のウェルビュートリンがコンピューターに表示されたのでしょう、この薬はまだ飲んでいるか聞かれました。
飲んでいないと答えると、薬剤師さんがやってきて再度コンピューターをチェックしていました。
テクニシャンの人によるとコンピューターでウェルビュートリンとタモキシフェンの間に相互作用があると出たとのこと。私もウェルビュートリンを服用しているとタモキシフェンの効果が落ちる事を知っていたので、これは病院のコンピューターで新しい情報をきちんと分かるようになっているんだな、と関心しました。ウェルビュートリンとタモキシフェンの相互作用に関してはウェルビュートリンを処方してくれた精神科医は知らなかったようです。腫瘍内科医のDr.Lもそんなに気にしていない様子でした。
患者本人の私としてはタモキシフェンにばっちり効いてもらいたいので、少しでもその効果を弱めるようなものは服用したくありません。
薬局ではタモキシフェン3ヶ月ぶん(処方箋は1年分)、火傷用のクリームをもらって家に帰ってきました。
思えば告知されて11ヶ月。
やっとホルモン療法にたどり着きました。
帰りの車の中で、告知されてから化学療法、手術、術後化学療法、放射線療法とやってきた治療のことをなにげなく考えていました。
やはり一番精神的に苦しかったのは告知直後でした。
その時の事を振り返ってみて、すこし複雑な気持ちがしました。
薬ビンの中をみるとMと彫られた白い錠剤が入っていました。
これがタモキシフェン・・・
乳がん関連に詳しい人にはお馴染みのこの薬。自分では初めて手にしました。
これを一日一錠、5年間服用します。
これからお世話になります。
ちなみに火傷用のクリームはこちら。薬局でははじめ500グラムくれるといったのですが、それはあまりにも多すぎるので小さいチューブを4つもらってきました。
ミッシェルによるとクリームを塗っ後何も上に張らないようにとのこと。
特に外出などしないとき、家の中で塗って2-3日すると改善がみられるようです。
今日の夕方から試してみようと思います。
2009年5月26日火曜日
課題をやっと
そして課題を始める前に日本での告知・・・
課題をくれた博士のDr.Lは「もう何もしなくていいよ。」と言ってくれ、課題の事は心配しないで治療に専念するようにということでした。
そう言われたものの、一度やりますと言った仕事。
その時に「それじゃ、やめます」と言えば楽だったのですが、告知されたからといって投げ出すのは気がとがめました。
そこで治療中も時間があればぜひ課題を進めていきたいことをいを伝えました。
術前化学療法が始まり、ウイークリー・タキソールだったので術前のACに比べ副作用が全然楽なのがわかりました。そこでぼちぼち課題を再開したのです。
一度はコンピューターのハードドライブがいかれてしまい、せっかく取ったデーターを全て失うなどの事故もありましたが、今日やっと全てのデータを取り終えました。
今日の朝は娘も夫もまだ寝ているうちに起床し、学校へ。
取り終えたデータを提出するため、10時にDr.Lと会うことになっていました。
Dr.Lはいつもどうり、明るい笑顔で迎えてくれました。
ディスクに焼いておいたデータや作成したグラフなどを見せ、内容を一緒に確認しました。
あとで学生のBが入ってきて、Dr.Lと私にお茶をついでくれました。
それでみんなでお茶をしながら無駄話。
何はともあれ約束した課題を無事終えたので、うれしかったです。
話変わって右脇の下の皮膚ですが、悪化しているようです。大きさも広がってしまい、ジンジンと痛みます。もうかなり醜くて、ブログにも載せられないくらいです(泣)。
傷をカバーするシートも今日の朝でなくなってしまったので、家に返る前に病院に寄ってきました。どうにか2枚、シートをもらってきました。1シートはA4ぐらいの大きさがあるので、これを適当な大きさに切って使います。
夕方は娘を連れてChuck E Cheese's というお店へ。小さな子供ができるゲーム等があって、ピザやサラダバーなどの簡単な食事ができるようになっています。
店についたのは夕方5時前でしたが、かなり空いていました。平日だけど、そろそろ小さな子供達を連れて家族ずれが集まっても良い時間です。それでもお客は4-5人。がらんとした店内で、娘は楽しそうに遊んでおりました。私は飲みものを飲むこともできず、ふりまわされていました。
店を後にしても遊び足りない娘。そこで陽気もいいのでそばの公園へ。水際ではカナダガンがコガモを連れてなにやら食べていました。
今日は晴天でここちのよい風が吹いていました。
公園にあるゴミを積んでつくられた”山”のてっぺんで、凧を揚げているひとが2-3いました。
今日は凧を揚げるには本当に最適な日でした。
公園ではかなり多くの人がくりだしており、ウォーキングやジョギングをしていました。
最近は景気が悪いせいかレストランやお店にも客が少なく、がらんとしているところが多いです。
それに比べてお金のかからない公共の公園は、良いリクリエーションの場なんでしょうね。
特に陽気がよい今日のような日は、やっぱり野外が気持ちよいです。
2009年5月22日金曜日
わきの下の皮膚、よくならないなあ
2009年5月21日木曜日
歯医者へ
午後11時にまた根っこ専門の歯医者さんDr.Eのところへ。
レントゲンを見ると横に変な線が入っているそうです。
もしかしたら骨折しているかも、ということでした。
まずは治療を始めてみて骨折のようなら抜歯だと言われました。
でもどうやら骨折ではなく、昔入れた詰め物が横に染み出してきたものが線として写ったらしいということ。そのまま根っこの治療をしてくれました。
抜歯がなくてセーフでした。
午後に義姉から私宛で鉢入れが届きました。
2009年5月20日水曜日
放射線治療三十回目(最終日)とポート除去術
おかげで朝は時間がたっぷり~と思っていたら、家を出るのが遅れてしまい、病院には5分ほど遅れで着きました。
待合室に行くといつも朝に会うフィリピン人の女性が座っていました。
彼女のだんなさんはすい臓癌のため治療中です。
すい臓癌というと予後の厳しいがんの一つですが、彼女によると旦那さんは絶対に克服すると頑張っているそうです。奥さんもとても優しい人なので、旦那さんにも本当に頑張って長生きしてほしいです。
待合室に座っているとDr.Nがやってきて話かけてくれました。
私の主治医ではないですが、Dr.Mの代わりに2回ほど診てくれました。
治療の事意外に学校に関するアドバイスなどもくれて、本当にいい先生です。
しばらくしてジョージが待合室にやって来てくれました。
いつもどうり治療室に入り、治療開始。
そしていつもどうりブースター照射だけで5分ほどで治療完了。
今日は最終日だったので、壁にあるベルを鳴らしました。
治療士のジョージとトレイシーがおめでとうと言ってくれ、おっきなハグをしてくれました。
二人には本当にお世話になりました。また機会があったら二人の顔を見に、治療室のほうに行こうと思っています。
その後個室に通されました。
今日は治療最終日なので主治医のDr.Mに診てもらいました。
脇下の皮膚のただれを見せると、「たいしたことない」との事。
約一ヶ月後にフォローアップ受診の予約をとり、放射線科を後にしました。
一時のアポイントまで時間がたっぷりあったのでフードコートに。
途中で手術をしてくれたチーフ・レジデントの Dr.Cにばったり出会いました。
「元気そうですね」と話かけてくれて、私が学生であることも覚えていてくれて、
「そう、秋から復学ですか。よかったですね」と言ってくれました。
フードコート内にあるタコベルでコンボを頼み、本など読みながら時間をつぶしていたのですが、短気な私は一所にずっといれずにフードコートを出てポート除去処理をしてくれるAngio Departmentへ向かいました。
CTと兼用の受付にいくと、デスクに誰も座っていません。
デスクのところには電話がおいてあり、受付に誰もいない場合はCTの内線に電話してくださいと指示があったのでそうしました。電話口にはCT担当の人がでてくれて、今度はAngio Departmentの内線番号をくれました。そちらに電話すると現在緊急の患者さんが入っているので、しばらくCTの待合場で待っていて下さいとのこと。
もともと30分早く着いてしまったので、待つのは当たり前と呑気ににかまえて待っていました。
準備室に通してくれてガウンを渡されました。上だけ脱いでガウンをはおり待っていると、看護士さんがやってきて今日の手順を説明してくれました。
私は左肩のところにポート挿入手術の跡がありますが、そこと同じところに切り込みを入れ、ポートを抜き取るということ。局所麻酔をたっぷりしてくれるので、傷みはないはずですと言われました。
次に今回私を担当してくれるDr.Yがやって来ました。
基本的には看護婦さんが説明してくれた内容を繰り返し話してくれて、私がサインする同意書をくれました。それをサインすると治療室のほうに通されました。
治療室は少しひんやりしていました。
はじめに治療台にうわむけに横にならされ、胸部のレントゲンを撮られました。
レントゲン画像はすぐに室内のモニターに映し出されました。
左肩に入っているポートがくっきり写っているのがわかりました。
それから原発巣があった右胸に4つ、 ホッチキスの玉のようなもの。それから両肺の内側に不明瞭な影があります。とても気になったので看護婦さんにこれらが何なのか尋ねてみました。
看護士さんは私の体を起こしてくれて、レントゲン写真の映し出されたモニターを私の近くに持ってきてくれました。「私は医師じゃないので詳しくは分からないけど・・・」といいながら、ホチキスの玉のようなものは手術のときに入れられたクリップのようなもの、肺の影は気管支が枝分かれしているところでしょうと教えてくれました。
自分のレントゲンに影などがあると、小さいものでもすぐにビビッてしまう私です・・・
しばらくしてフィリピン人の看護士さんが入ってきました。
ポートがある場所を消毒してくれて、血などが飛び散らないように青い紙を何枚か私の顔と胸を覆うように設置してくれました。
私は仰向けに寝かされていますが、顔を右に向けているように支持され、顔の上には青い紙が広げられているため、部屋の様子やお医者さんが何をしているのか全く見えません。
Dr.Yが入ってきて、まずは局所麻酔をしてくれました。
これがチクーっと痛かった!
でも一度麻酔が効いてくると傷みは全く感じませんでした。
その代わりメスで切込みを入れたり、ポートの周りの組織をぐちょぐちょいじくったり、ポートをグイグイ押したり引いてたりしているのが分かりました。どうせなら全身麻酔で眠らせてほし~と思ったりしましたが、先生と看護士さんが絶えず会話をしてくれて私も参加させてもらえたので気が紛れました。
フィリピン人の看護士さんは背の低い女の人で、紙で顔がすっぽり隠されてしまって上は全く見えない私の顔のすぐ前に立っていてくれて、私の様子を見ながら話かけてくれました。
開始後20分ぐらいしてDr.Yが「取れましたよ。見たい~?」というので見たいというと、
顔の前に血みどろのポートがベローンと現れました。
Dr.Yは「記念に持って帰る?クリスマスの飾りにできるよ」などと冗談を言っていました。
全て順調に行ったのですが、あえて文句を言うとするなら治療室が寒かったこと。
とくに私は横になったまま30分ほど全く動けなかったので、余計寒かったのかもしれません。
夜になって傷口が少しヒリヒリしましたが、擦傷が痛むぐらいの軽い違和感です。
シャワーなど普通に浴びていいけれど、水絆創膏のところを擦ったりしないようにとの支持。
水絆創膏は2週間ぐらいで自然と取れるらしく、それまではいじって無理に剥がしたりしないようにとのことでした。傷口は内出血する可能性があるけど、自然だそうです。それから万が一熱など出たりしたら緊急室へ直接行って受診するように言われました。
夕方は家族で外食。
食後も外がまだまだ明るかったのでそばの公園で散歩をしました。
よい夕涼みになりました。
2009年5月19日火曜日
放射線治療二十九回目
今日の朝は少し涼しめの晴れ。また春が戻ってきたみたいです。
いつもどうり子供をデイケアにあずけて病院へ。
そして皮膚のみへのブースター照射。
きょうもさっくり終わりました。
いつもは毎週火曜日が主治医との診察なのですが、実はあしたが放射線治療最終日なので明日診てくれるとのこと。
明日は放射線療法最終回と、左肩に組み込まれたポートを外してもらいに行きます。
そこでポート外し処置のための血液検査をしにラボへ。
待っている間、マスクの箱がおいてあって無料で取れるようになっていたので4つほどもらいました。
日本に帰国する際に必要になるかな、と思ったからです。
日本では今マスクが品切れって、本当でしょうか!?
しばらくすると自分の番号が表示されたので中に。
ポート除去に加えて再建手術のための血液検査もしてもらうことにしたため、合計7本の試験管分の血を採られました。
帰りはメキシコレストランのMoe'sというお店でランチをテイクアウトして帰って来ました。
午後はすっかり晴れ。
お手伝いしている基礎研究のほうを早めにきりをつけたいので、午後はその仕事をやったり、国家試験の勉強を少ししたりして、一日中家の中で過ごしました。
せっかく気持ちの良い一日となったので、夕方は娘と散歩に行きました。
2009年5月18日月曜日
放射線治療二十八回目
2009年5月17日日曜日
一日中雨
でも朝起きると、わきの下がヒリヒリします。
どうも昨日皮が剝けてきたところが、拡大して水ぶくれが破けたようになっていました。膿んだような感じではないですが、膿みのような金属臭にも似た鼻をつく匂いが少ししました。
洋服などに触れると痛いので、張りつかないガーゼというのを張っておきました。
いつもは夕立のようにザーッと雨がふって止んでくれるアメリカの雨。
でも今日は一日中絶間なく雨が降りました。
今日は近くのモールに、娘の大すきなアニメキャラクターのスクービー・デゥーが来るというので雨の中でかけました。
少し早めに着いてしまったのでまずはフードコートにいき、いつものチャイニーズ屋さんでセサミチキンとヤキソバ、ミックス野菜を注文。
ご飯のあとはモールの中を歩き回り、少し買い物などもすませました。
そしてモールの中心部に向かって歩いていると、スクービー・デゥーを発見。
まだ人の数も少なくて、すぐに娘とスクービー・デゥーのツーショットを撮ることができました。
このみぐるみのスクービー・デゥーは足が真っ直ぐで、やっぱりアニメとは形がちがうなと思いました。
それでも娘をはじめ周りにいる子供達は本物のスクービー・デゥーと思い込んで大興奮。
幼い子達は純粋でかわいいですね。
帰りはスーパーに行って食材を買って帰ってきました。
家についたのは4時ごろでしたが、外が雨だから出るのも億劫。
結局今日はそれ以降ずっと家にいました。
偶然テレビでスクービー・デゥーのアニメを3話連続やっていたので、娘もそれを見て楽しそうでした。
明日もまた放射線療法に行ってきます。
2009年5月16日土曜日
卒業のお祝い
日中は特に何ともないのに、熟睡中に痛くなるのは何か理由があるのかな。
痛いといえば、放射線療法を受けてきたわきの下がヒリヒリするようになりました。
良く見ると肌が黒ずんで、一部皮が剥けて下のピンクの組織が顔を出しています。
でもこの右側は脇下リンパ節を取ったので、皮膚の感覚がほとんどありません。
もし皮膚感覚があったら、すごく痛むんでしょうが、多少ヒリヒリするぐらいですんでいます。
さてお昼ごろ、荷物が届きました。
UPSのおじさんが箱を玄関先に置き、ドアのベルを鳴らしてくれました。
それでドアを少し開けたとたん、後ろにいた我が家の犬がこれ見よがしにドアと私の間をすり抜け逃走。
そこで私と娘はスライス・チーズを片手に犬の追いかけ。
最後は2ブロックほど離れたよその裏庭に追い込みました。
人様の裏庭で芝生の匂いを嗅いだり、ごろごろと横になって背中を掻いたり、気持ち良さそうにしていました。つかの間の自由を満喫している様子。でも私達がチラつかせたスライス・チーズには勝てず、まんまと逮捕となりました。
家に帰ってきて娘が書いた絵がこれ。
先週の土曜日にクラスメートの誕生会で行ったのと同じところです。
御一緒するのは始めてです。
私が再建手術を受ける話をすると、「とてもお勧め」と言ってくれました。
2009年5月15日金曜日
放射線治療二十七回目
2009年5月14日木曜日
放射線治療二十六回目
2009年5月13日水曜日
放射線治療二十五回目
2009年5月12日火曜日
放射線治療二十四回目
2009年5月11日月曜日
放射線療法二十三回目
2009年5月9日土曜日
さわやかな土曜日、風邪ぎみの私
確かに家に帰るころには喉が痛いというか、スムーズでないような感じ。
子供を夕方散歩に連れて行き、側のセブンイレブンでのど飴を買いました。昨日はずっとそれを食べていたおかげで、喉の様子はそんなに悪くならずにすんだのですが、昨夜は微熱がありました。それから軽い頭痛がしました。体もとても疲れていて、「もしかしたら豚インフルエンザ?」なんて思ったのですが、今はもうかなり元気になりました。
今朝は倦怠感と暑い感じがして5時に目が覚めてしまいました。
実家に電話をかけ、父の容態を尋ねました。
今まで酸素マスクをかけられていたのですが、日中はそれを取ってもよくなったそうです。
熱も少し下がったようで、なによりでした。
電話のあとはまた寝床へ。
とにかくこの風邪を悪化させられないので、寝れるだけ寝て治そうという戦法です。
昼ぐらいまでずっと寝ていたかったのですが、9時半ごろ娘が起きてしまい
「ママー、朝だよ~。おきようよー」と始まりました。
テレビをつけて30分ほど見させている間、私は寝床でグー。
それでも10時ぐらいには私も目が覚めてしまいました。
絶好調というわけではないけど頭痛は治まり、喉もまあまあ、体温もほぼ正常に戻りました。
すこしだけ倦怠感が残っていて、鼻水がかなり出ます。
子供は遊園地に行きたいと言うのですが、今日はあまり激しく活動しないほうがいいなと判断。
そこでお昼は近くのモールに。
娘のすきなセサミチキンを食べました。
モールのおもちゃ屋さんにより、乗り物があるので乗らせてから家の近くの公園に。
これはごみの山でできたパークです。自転車やランニングをしている人、子連れで凧揚げをしている人などがいました。娘は「山にのぼろー」と張り切って、ずんずん登っていってしまいます。