2008年12月31日水曜日

大晦日

今日はお日様が出てすがすがしいものの、風の強い大晦日でした。
 
お昼過ぎに大晦日の買い出しに。
日本食の食材屋さんでお米、かまぼこ、はるまき、などなど買いました。おせち料理なども売っていて、高いお金を出してネット注文した私としては「来年はここに買いにこよう」という感じ。一月からまた化学療法が始まるので、しょうゆなども買い足ししておきました。
 
その後は近くのスーパーへ。今夜作るてんぷらのネタとお寿司のネタを買いに行きました。車から一歩でるとすごい風。カツラをとばされまいと、手を頭におきながら駐車場を歩きました。 今日は水ボトル24個入りを買ったのですが、これが重い!右手が上がらない私にとっては、カートへの出し入れがひと苦労でした。それから車の運転がまだうまいように行きません。左手は自由に動くので、片手運転しています。右手をハンドルに添えるようにしているのですが、しばらくすると腕が重痛くなり、横に置いておく状態。ギアをいじるのも一苦労です。
 
今日は母が日本から送ってくれたそばを煮て、てんぷらを作って食べました 年越しのパーティーなども参加せず。 家族だけでのんびりの年越しです。


日本では14時間前に新年が明けているので、こちらの夜8時ごろ、日本時間の10時ごろに日本の家族に電話を入れました。 自分は闘病生活だけれど、家族がみんな元気だというのは、強い心の支えになります。


今年は告知を受け、人生の大きな節目となりました。
いろいろな事を考えさせられ、これからの自分の人生について深く考える機会となりました。
でも悔いの残らぬよう、前向きに頑張って行きたいと思います。


みなさまも良いお年をお迎え下さい。


2008年12月30日火曜日

メンタルクリニックへ

11月にレファレンス(紹介状)をもらい、今日メンタルクリニックへ行ってきました
    
今日会った精神科の先生はフィリピン人の女医さんでした。フィリピンの医学部を卒業し、内科医として働いていましたが、アメリカに来ることになり精神科のレジデンシーをこちらでやったそうです。
         
オフィスにはゆったり座れる椅子と長椅子が置いてあり、どこに座ってもいいですよと言われたので長椅子に腰掛けました。
          
要は11月に鬱状態になったことと、頭がなんとなく疲れて日中も眠く、何もなる気が起きないことを相談にいったのですが、結局子供時代の話から告知のことまで、自分のこれまでの人生をかいつまんで話すことになりました。
   
セッションの最後にあまり強くない抗鬱剤を処方してくれました。

まずはこれを試してみて、頭の疲れややる気が出るか試してみよう、というアプローチです。

一日一錠、朝ごはんの後に飲むそう。ただし効き目が現れるのは投与を始めてから2週間後らしいです。3週間後にはまた化学療法が始まるので、化学療法しながらこの抗鬱剤を飲んでもよいか、腫瘍内科の先生に相談してみようと思っています。

2008年12月25日木曜日

メリークリスマス

メリークリスマス!今年ももう終わりですね。みなさんにとって来年も良い年でありますように!
上の写真は ご近所のクリスマスライトです。凝っている家は、かなり豪華なデコレーションをしています。

アメリカも日本より一足遅れてクリスマスを迎えました。
夫の姉と妹家族がやってきてくれました。
 
妹家族は昨日夜遅く(というか午前の一時過ぎ)についたようです。私を娘は既に床についていました。
 
今日の朝は私も起きたのは朝11時ごろ。みんなも遅く起きたようです。
子供に「サンタさんは来たかなあ。下に見にいこうか」と言うと真面目そうに「うん」いう返事。
下に言ってまずは昨夜サンタさんのためにテーブルに出しておいたヨックモック(母が送ってくれました)のクッキーをチェック。私が昨夜、娘が寝た後に食べておいたので袋が破れて中身がなくなっています。
「あ、なくなってるね。サンタさんが食べたんだよ。ほら、プレゼントもツリーの下に!」
と言うと娘もツリーのほうをふりむいて赤い包装紙に包まれたプレゼントをみつけました。
娘は「あー!」と一言。
そしてすぐに開きたいと言いますが、「みんなでプレゼント開くから、ちょっと待とうね」と言うと、聞き分けよく「うん」という答え。
 
昼過ぎにターキーを焼きはじめ、プレゼントをひらきました。
娘はサンタから希望のおもちゃをもらえて大喜びでした。
 
それから他の料理をみんなでつくり、食べたのは3時ちかく。
それから外出もとくにせず(クリスマスの日は、映画館ぐらいしか開いていません)、大人はみんな夕方ごろまで昼寝。私も2時間ほど寝たでしょうか。
 
夜はお昼の残りを中心に食べ、「The Temptation」という映画をテレビでみながらみんなでぐうたらに過ごしました。
 
娘はいとこのDと遊んでもらっておおはしゃぎ。
何も特別なことはしないけれど、家族そろっての良いクリスマスでした。


妹家族からもらったプレゼント。さっそく遊んでいました。

サンタさんからのプレゼント。ウォールマートのチラシで見て、このキャラクターのおもちゃが欲しいといっていました。上のトンネルのオモチャと同様、アメリカで人気のアニメキャラクターのオモチャです。

2008年12月23日火曜日

やっぱり言えなかった

昨日はやっとクリスマスカードを書きました。
今年は既にカードを送ってくれた人と、特別な友達だけに書きました。
 
実は私は家族以外、日本の友達に病気のことを知らせていません。
 
今年の春、遠くに引っ越した友達がいます。
同じ日本人で、国際結婚で、同じ年で、子供も同じ年。
子育てを一緒に楽しむ、何でも話しができる仲でした。
いつも「健康だったら何でもできる。健康が一番大切だねー」なんて話していました。
 
彼女からクリスマスカードが届き、本当は病気のことを打ち明けようと思っていました。
でもいざ、カードを書こうとすると戸惑いが。
結局病気の事は書かず。
 
どうして友達に病気の事をカミング・アウトできないだろう、と考えてみました。

告知されたことで、自分が「負け組み」に入ってしまった思い。
そして、その事を友達に打ち明ける「いさぎよさ」がまだありません。
 
来年、治療を終えて帰国する時には、友達にカミング・アウトしようと思っています。
  
そして「負け組み」でも、生きている限りは「敗者復活戦」に参加可能です。
   
いろいろとハードルはあるけど、これからが闘いの始まりです。

Dr.C からの電話

今日8時半ごろ、Dr.Cから電話がかかって来ました。
私はまだ床の中でした。寝てたのがばればれで、Dr.Cには「起こしちゃってごめんなさい」なんて言われてしまった。
 
電話は昨夜行われたキャンサー・ボードの件でした。
いろいろな科の先生が集まって検討した結果、これからの治療方針は:
1)タキサン系抗がん剤による術後化学療法
2)放射線療法
3)ホルモン療法
に決定ということです。すべて想定内の治療方針でした。
  
  
昨日チューブを抜いてもらい、だいぶ楽になりましたが、やはり回復中の体は疲れやすいです。
今日も朝から午後4時ぐらいまで、長椅子に横になり長い昼寝をしました。
 
夕方は外食に。それからモールを夫と娘と一緒に少し歩きました。偶然昔の同僚とバッタリ。立ち話などしました。
 
明日はクリスマスイブ。親戚が来るので、家の掃除に買い物に。。。すこしどたばたしそうです。

2008年12月22日月曜日

最後のチューブが抜ける

今日は病院へ。
まずはインフュージョン・センターに行き、ポートをフラッシュしてもらいました。
いつもは生理的食塩水とヘパリンが入るとき、変な味がして気持ち悪くなります。
私は看護士さんが採血など行うとき、一部始終ずーっと見ているやな患者です。
でもフラッシュに対して偏見があるので、今日は目をそむけていました。
そしたら生理的食塩水もヘパリンも、入ってきたのが全然わからないくらい、すんなり終わりました。
気持ち悪くなるのは精神的なものが大きいのかな、と思ったりしました。
 
そのあとブレスト・クリニックへ。
Dr.CがDr.Wをつれて診察室にやってきました。
傷口の様子などを見てくれて、順調に治癒しているとのこと。
それで最後のドレイン、右胸に入っていたのを抜いてくれました。
術後二週間と一番長く入っていたので、抜くとき他のチューブと比べて一番痛かった。
でも抜いてもらったあとは、チューブが出ていた右脇がすっきりし、右腕を動かすのも多少楽になりました。
 
これでチューブなしでクリスマスが迎えられます。
それからシャワーもオッケーとなりました。
あとは右腕のリハビリで、なるべく腕を動かすようにとのこと。

私の症例は今夜のキャンサー・ボードにかけられるそうです。早ければ今夜、遅くても明日の朝、Dr.Cが今後の治療方針についてキャンサー・ボードで決まったことを電話で連絡してくれるそうです。
 
私がリンパ節の転移と、Extracapsular extension (がん細胞がリンパ節の殻をやぶって、外の組織に浸潤している状態)のあることが心配であることを言うと、Extracapsular extension についてはそれほど心配しなくてもいいでしょうとのこと。そして
「外科的には見える癌は全て取り除きました。マージンも陰性だし、今の段階ではあなたはtumor-free (腫瘍がない状態)ですよ」と言ってくれました。」
ステージIIIなので、再発の危険はまとわりつきますが、こう言ってもらって少し嬉しかったです。

治療は続きますが、ずっとtumor-freeでいられるように頑張ります。

2008年12月19日金曜日

友達とランチ

今日は学校の最後の期末テストの日。
友達とランチに行くため、テストが終わる12時半ごろに学校に行きました。
まだドレインのチューブが抜けないので、夫に車で学校に連れて行ってもらいました。
 
学校の前や廊下でクラスメートの子達と会い、ついつい話こんでしまった私。
ランチを食べに行くグループの子達と学校で会いそびれてしましました。
でも友達に一人が連絡を取ってくれて、ランチをしているインディアン・レストランまで車で連れて行ってくれたのでラッキーでした。
 
体のほうは外出して友達と楽しくランチするようにまで回復したのですが、まだ術後の傷が痛みます。
左右の胸部は皮膚感覚がほとんどなく、右腕はたえず重い感じです。
右腕は肩までも上げることができません。右脇の傷は未だにヒリヒリと痛いときがあります。
 
2-3ヶ月後には自由に右腕を使うことができるのだろうか。
このまま腕が固まってしまったり、しないかな。
などと考えてしまいます。
 
ラインが終わり、夫が迎えに来てくれました。子供のクリスマスプレゼントを買いにおもちゃ屋に行きました。それから家に帰って30分ほどのんびりしたあと、子供を迎えにデイケアへ。その足でモールに向かい夕飯を食べてきました。
 
家に帰ってきたのは7時半ごろ。なんだかとても疲れていて、長いすで3時間ほど寝てしまいました。思えば友達と外出したのは術後はこれで初めて。知らないところで疲てしまったのかもしれません。

2008年12月18日木曜日

病理検査結果

今日はチューブを抜いてもらいに病院へ。
  
やっと今日でブラブラしているドレインとおさらばと思いきや、抜いてもらえたのは左胸と右脇の2本だけ。右胸のチューブは昨日の時点で30ml(30ml以下になればドレインが抜いてもらえます)だったので、念のため残しておくということ。月曜日には抜いてくれるそうですが、それまでもう少し我慢。でも2本抜いてもらうだけで、動きも取りやすくなり、生活し易くなりました。
 
チューブを抜いたあとは病理検査結果が待っていました。
詳細は省きますが、主な点は以下のとうり:
1)右胸
   原発巣は2.6cm
   浸潤性の病変の他に、非浸潤性(DCIS)も見つかりました(全摘してよかったです)。
   リンパ管浸潤(+)
   その他、乳腺線維腺腫やシストをはじめ良性ではありますが異常がいくつかみられました。
2)右脇下
   リンパ節転移あり(2/9)
3)左胸
   異常なし

ということで、術前化学療法のおかげでステージがIIIAからIIBにダウンステージしました。ただし治療は年齢や病理結果を考慮して「高リスク」として行われます。来週これらの結果が「キャンサー・ボード」にかけられます。これは外科、腫瘍内科、放射線科のお医者さんから構成されるグループで、症例の検討会です。キャンサー・ボードにより術後の治療方針が決定されます。Dr.Eの話だとリンパ節転移が認められるので、放射線治療は免れないだろうとのこと。
 
はっきり言って、放射線治療って個人的に一番いやな気がします。。。でも癌だからしょうがありあせん。低リスクのケースでもないし、全てできることやるのが「闘い」かなという気もします。
  
でも自分の未来がとても見え難い乳がんという病気、本当に扱いにくいです。
 
数ある疑問も、すぐに答えが出ないし。

2008年12月17日水曜日

診察の予約

今日もしとしと雨が続いた一日でした。

でも気温はそんなに低くなく、家の中で厚着をして歩き回るっていると少し汗ばむくらいで暖かかったです。
 
喉痛もだいぶ良くなり、昨日の夜はよく眠れました。


さて、術後の廃液のほうですが昨日の時点で右胸m30l、右脇5ml、左胸22mlと順調に減っています。今日はブレスト・クリニックに電話をかけ、あす2時にDr.Eとのアポイントを取り付けました。予定ではこのドレイン・チューブを明日取ってもらえる予定です。抜くとき、痛いと聞いていますが大丈夫かなあ。でも一歩進展なので、すこし嬉しい!

2008年12月16日火曜日

風邪と発熱

術後やっと一週間がたつな、と思っていた矢先、ひどい喉痛にみまわれました。
 
日曜日の午前3時ごろに少し喉に違和感があり、薬を飲みに起きたのを覚えています。 そして布団にもどり朝おきると、かつてないほどの喉の痛み。
    
術後の傷もまだ痛みますし、日曜はずっと横になっていました。退院したときに出してもらった痛め止めも服用し続けました。
 
とにかく半端でない喉の痛みでした。唾を飲み込むことさえできず、寝ても30分おきに目が覚めます。 唾を飲み込めないので、下手に唾液が肺のほうに流れてしまっては。。。などと心配もするほどでした。
 
日曜の午後には頭がぼーっとし、起き上がることもできませんでした。その夜は結局長椅子で夜を過ごしました。
 
月曜日になっても体調が全然良くなりませんでした。体は重く、まるで化学療法の副作用のようでした。
夫が新しい体温計を買ってきてくれました。昼に計ったときは101.5度(39度)、午後の2時ごろにはかったら103.4度(40度)の熱。104度になったらERに行くようにとの支持なので、重い体をどうにか起こし、身支度をしました。
 
ERについたのは午後4時前でした。待合室には人が沢山待っていましたが、私が癌患者で一週間前に手術していることからすぐに看護婦さんが看てくれました。そして尿サンプルを提出してまもなく個室へ。
 
喉が痛くて飲み物も飲めなかったので、すぐにIVで生理的食塩水を2リットル投与してくれました。そのときの体温は99.4(37度)にまで下がっていました。おそらく病院に向かう直前、2時ごろ家でのんだタイレノール(市販されているアセトアミノフェン系解熱・鎮痛剤)が効いてくれたのかもしれません。IV投与が進む間、採血したり緊急医療科のお医者さんが入ってきて診察してくれました。喉が真っ赤に腫れているので、おそらくウイルス性か細菌性の喉頭炎で、発熱はその感染からきているでしょうとのこと。
 
でも念のためレントゲン室へつれて行かれ胸部レントゲンを取りました。正面の写真は難なく取れましたが、横向きの写真のとき「両手を思いっきり上に上げて下さーい」といわれ「両胸乳腺切除したばっかりだから、できませーん」という感じでした。結局左手を前に伸ばし、右手はすこし折り曲げて心持ち上にずらしたかたちで取りました。

私がERにいると連絡があったのでしょう、外科の私の主治医のDr.Eが、同じく外科で私の手術にも携わってくれたDr. CとDr.Wを連れて診察室に入ってきました。まずは喉の具合をチェックし、次に手術の傷もみてくれました。傷口は綺麗で、特に感染など起こしてる様子は見られないとのことでした。

後にDr.Wが入ってきて、好中球の値が98%と高くなっていることを教えてくれました。

IVがスタートしてから、寒くてたまりませんでした。毛布を2枚もらったのですが、冷たい生理的食塩水が体のなかに入ってくるので、ブルブル震えました。
 
午後5時で緊急医療センターのシフトが変わり、はじめに診てくれた女医さんから担当が男のお医者さんに変わりました。痛みをコントロールする薬は今日ここでもらっているかと聞かれたので、いいえと答えましした。お医者さんが出て行ったあと、看護婦さんが入ってきてモルヒネを投与してくれました。その後、自然に寒いのが止まり、喉はまだ痛かったけれど少し居心地が良くなりました。
 
連鎖球菌というばい菌が原因の喉頭炎の可能性があるので、それをテストする看護士さんも入ってきました。結果は陰性でしたが、念のためにサンプルを培養検査に回しました。

夜の8時ごろアテンディングの医師が入ってきました。胸部レントゲンも異常なし、連鎖球菌のスクリーニングも陰性だったので、抗生物質は今回は出さずに家に帰してくれるとのこと。その時体温は101.0(38度)と微熱がありましたが、ERに来た時と比べるとかなり具合は良くなっていました。
 
家についたのは9時をゆうに過ぎていました。子供は近所の人がデイケアに向かえに行ってくれ、預かっていてくれました。
  
熱が少し下がったといっても、喉の痛みはあまり変わらず。結局その日の夜は1時間置きに目を覚ますありさまで、かなり辛かったです。
 
一日経って、かなり調子はなりました。病院に戻りたくないので、無理してでも水分補給しています。また昨日(病院にいく羽目になった日)は全く食べれなかったので、今日はスープなど食べるようにしています。
 
夕方はかなり元気も出て、子供の好きなカレーを作って家族一緒に食べました。少し安心。

2008年12月12日金曜日

退院4日目

今日の朝は少し傷口が痛み、一日のほどんどを横になって過ごしました。

現在Vicodinとibuprofenという2種類の痛み止めを交互に飲んでいます。

午後4時ごろ長い昼寝から覚めると、胸のあたりが重いような感じがしましたが、起き上がると普通に動きまわれることができました。

昨日は夫がマグロを見つけてきて買ってきてくれました。アメリカのマグロですから、新鮮度がわからないので生では食べる勇気はありません。かわりに今晩はマグロの生姜煮を作ることにしました。
     
病院内ではおいしい物が出なかったので、食欲もあまりなかったです。術後の初めの食事はスープのようなものが出て、手もつけず。翌日はポテトサラダのサンドイッチとフライドポテトみたいのが出ましたが、食べる気にならず。そのとき「日本のうどんが食べたーい」と強く願望しましたが、叶えられず。。。
   
家に帰ってきてやっと、白米や日本の緑茶など口にできます。やっぱり日本食がいちばん。

744グラムのマグロが、$18.63なりー。

2008年12月11日木曜日

包帯をとる

今日は包帯を取りました。
右腕が自由に使えないので、夫が手伝ってくれました。
 
私の術式は皮下乳腺全摘(Skin-sparing mastectomy)といって、乳腺組織はすべて取りますがなるべく皮膚を残すもの。切り口を最小限にして、掻き出すように組織を出すもので、再建前提の患者に行われる術式です。

でもいざ包帯を取ってみると胸はペッタンコ。故意に皮膚を余分に残した形跡がありません。。。
外科医チームは形成外科医と考え方が違うので、「癌細胞をすべて取るのが最優先」と。それには私も同意していました。術前にはDr.Eに「しっかり全部取ってくださいね」念を押したくらいです。
 
でも癌がない右側までもペッタンコとは??外科医にとってはなるべく大きく切り口を入れたほうが楽に乳腺組織が取れます。おそらく形成外科医のDr.Mの薦めた切り方をほぼ無視して切ったのかなと思いました。でも包帯を取って昼寝し、夕方に患部を見てみるとペッタンコというよりは少し陥没しています。これはもしかして余分に残してくれた皮膚があるために中に凹んでいるのかなとも思いました。まずは様子見で、次回の診察時に質問するつもりです。
 
Dr.Eは退院する前に「包帯を取って失った胸を見るのは、患者にとってtraumatizing(ショックを与える)な体験です」と言っていました。私はペッタンコになった胸を見て、結構平気でした。どちらかというと「癌を取ってもらった。これでいいのだ」という思いでした。

痛みは相変わらず右のわきの下がツッパル感じです。それから胸全体と右の上腕に皮膚感覚があまりありません。午後にケース・マネジャーから電話がかかってきたのでこの事を尋ねると、よくあることで完全に皮膚感覚が戻るには数ヶ月かかることもあるとのこと。
 
相変わらずドレインの管もブラブラさせて生活しています。これが取れるまで車の運転もできません。

2008年12月10日水曜日

退院しました

無事に手術を終え、昨夜帰ってきました。
手術日当日の事を忘れないうちに記しておきたいと思います。
 
12月8日、朝3時半に起床。すぐにシャワーを浴びました。特に手術される場所(両胸と右の脇下)は抗菌石鹸で念入りに洗いました。4時半には夫の運転で病院に向かいました。娘は義姉にデイケアに連れて行ってもらいました。
  
病院についたらまずはAPUでチェックイン。病院用のスモッグみたいなのをもらい、着替えました。少し待たされたあと、別の部屋へ。ここでIVを入れてもらいました。それから麻酔科の看護士さん、手術を担当する医師など次々とやってきました。最後の主治医・執刀医のDr.Eが来て胸に切る箇所をマーキングをしてくれました。形成外科医のDr.Oに来てもらってマーキングをしてもらうようにピッチで連絡を入れたそうですが、結局最後まで顔を出しませんでした。手術前に診察してもらった形成外科医のDr.Mが事前にお勧めのマーキングを描いて写真にとってくれて、執刀医のDr.Eにそれを渡してあったので問題はありませんでした。
 
手術前に覚えているのは麻酔科の看護士が「これから眠くなる薬を入れますね」とIVに薬を注入したこと。ほんとに頭がすぐボーっとしてきてその後のことはまったく記憶にありません。手術は7時半から始まる予定でしたが、この部屋にいたとき最後に時計をチェックしたとき7時10分ごろだったので、手術事態は7時半過ぎか8時ごろ始まったんではないかと思います。
 
目が覚めたのは回復室でした。夫と義姉がそばについていていてくれました。おそらくまだ頭がボーっとして眠たかったのですが、部屋に着いたのでベットを移動してくださいと言われ、移動しました。そのとき胸と右脇の傷口がかなり痛みました。ベット移動といっても二つのベットを横にくっつくように並べてくれて、体をずらすだけなのですが、イタイイタイ。でもどうにか部屋のベットに移動できました。
 
ベット元にはお決まりのナースコールができるボタンのついたリモコンのようなもの、そしてひとつPCAと呼ばれる緑のボタンのついたものが置かれていました。PCAはIVのユニットに付いているモルヒネの機械につながっています。痛みがある時に緑のボタンを押すと自動的にモルヒネが投与されるようになっています。基本的に最高で6分に一度(一時間に10回)の投与が許されるように設定してあります。回復室に入った当初は痛みが怖かったので1-2回押したのを覚えています。でも体を動かさずにベットでじっとしてる限り、痛みは我慢できる程度だったので、その後あまり押しませんでした。後ででお医者さんが入ってきたときに「モルヒネもあまり押してないみたいですね」といわれました。看護士には「トイレに行ったりして立ち上がったとき、痛かったら押してもいいんだよ」と言われました。その後は少しでも痛いと押していました。
 
手術する前に「乳腺全的の手術のあとは吐き気がある」と聞かされていました。確かに少し気持ち悪い感じがあったけれど、薬をもらうほどではありませんでした。夕方には義姉が娘をデイケアにピックアップしに行き、7時ごろには病院に連れてきてくれました。そのころには目もすっかり覚めていて、まだ少し疲れているかなぐらいで、普通に話しなどできました。子供とも少し会話を交わし、デイケアで描いた絵の切り抜きを私に渡してくれました。それから今日もらったというデイケアでとった写真も見せてもらいました。
 
IVでの水分補給は続いていましたが、看護士には「できるだけ飲み物をのんで」と促されました。夜8時ごろでしょうか、食欲もなく喉も渇かなかったのですが、水分補給にジュースを飲もうとしました。ジュースを口に近づけると吐き気が。飲んでもいないのに、飲もうとすると吐き気が出ます。それで抗嘔吐剤をIV投与してもらいました。これを打たれたとたん、酔っ払い状態に。話をしようとしても口がもつれ、頭で考えている言葉と違う単語が出てきます。そして猛烈に眠くなりました。夫と義姉は薬の影響で私が眠くなったので、子供をつれて家に帰っていきました。
 
夜中に何度か(4時間おきだったと思います)看護士が入ってきました。血圧、脈拍、体温、ドレインのチェックのためです。朝5時ごろにインターンのDr.Mが入ってきました。書類上はこの先生が私の入院を許可したことになっているので、いろいろ丁寧に診察や対応をしてくれました。
 
看護士にしつこく言われたのは「おしっこを出す」こと。8時までに必ずトイレに行ってくださいと言われたので、痛む傷口を我慢しながらトイレへ。一滴も出ません。尿意もほとんどありません。そこで看護士が膀胱内の尿を図るエコーの機械を持ってきて検査してくれました。結果は147ml。250ml以上だと尿意があって排出できなくてはいけません。医師にその事を報告。尿が出るようにと500mlの生理的食塩水をIVで投与されました。それでもおしっこが出ません。またエコー。結果は300-400mlとのこと。お昼ごろに夫と義姉が来てくれました。研修中の医学生が入ってきて、診察をしました。看護士がまた入ってきて「尿が出るように少し院内を歩いてください。出ない場合は膀胱にまた管を通して尿を出さないと」と言ってきたので、ベットから立ちました。歩く前に念のためトイレに行って少し座っていると尿が出ました。部屋を出るときにたまたま看護士がやってきたので「おしっこで出ましたよ」というと「ホントに?やったー」と喜んでいました。病棟内を一周してベットに帰ってきました。
  
3時半ごろに日本の実家に電話をかけました。日本時間で朝の時半ごろですが、父が起きているのを知っていたのです。思ったどうり、父が電話に出たので無事に手術が終わったとの報告ができました。
 
それから麻酔科の先生などが様子を聞きにきました。午後3時ごろにはさらに尿もたくさん出たので、看護士が喜んでくれました。4時半ごろにはDr.E を含め外科医チーム(数えたら9人もいました)がやってきました。包帯のしたの傷口の様子などを見てくれて、家に帰っても十分水分を補給するのを約束に、今日退院してもいいとのこと。傷口はまだ傷むので、もう一日入院してもよかったのですが、普通に歩いたりできるので退院したいことを告げました。家では3つ入っているドレインのチューブを自分で管理していきます。それから胸に巻いてくれた包帯も、翌日に取っていいと言われました。
   
医師の診察のあと、夫と義姉は娘を迎えに一時家に帰りました。娘のデイケアが閉まる時間が迫っていたからです。病院を出る前に薬などもらったり、退院の手続きもあるので時間がかなりタイトでした。
 
私は着替えをして、ボーっとテレビを見たり、担当の看護士(Robyn)さんと話をしたりして夫を待っていました。夫が娘を連れて病院に来たのは8時ごろ。帰りにファーマシーに立ち寄って痛み止めの薬をもらいました。夜遅くだったのでファーマシーもあまりこんでいませんでした。家には9時ごろ着きました。
10時にはドレインに溜まった廃液を出して量を測りました。どのドレインも20mlでした。24時間のあいだに出る廃液が合計で30ml以下になればドレインをはずしてもらえます。それまでは体に3つのドレインチューブとボールがブラブラ。それからしばらく重いものなど持てません。娘が「抱っこー」とまだ来るのですが、「だめだよ。ママは抱っこできないよ。怪我してるからね」と言っています。昨日ファーマシーで待っているとき、右腕に刺されたIVの針の跡に貼っていたバンドエイドをみて、「まま、痛い?じゃあスヌーピーのバンドエードかってあげよう」と言っていました。手術の傷跡もバンドエイドで治ってくれれば嬉しいですけどね。



現在こんな感じです。ドレイン3つがブラブラ吊る下がっています。朝、昼、夜、寝る前の4回、廃液の量を測って記録しています。ごらんのとおり、すっかり胸がペッタンコです。

2008年12月7日日曜日

明日はいよいよ手術です

明日の手術は朝7時半の予定。
病院にチェックインするのは5時です。
  
リュックサックに着替え、暇な場合に読む本、DVDプレーヤーなどを入れて荷造りしました。
着替えはブカブカの服など。明日は胸にさよならするので、ブラは入れませんでした。
 
夫のお姉さんが、昨日来てくれました。明日、私達の代わりに子供をデイケアに連れて行ってくれるそうです。
 
朝3時半起きなので、今日は10時半には寝ます。

次のブログ更新は退院後に!
 

2008年12月5日金曜日

術前の手続き


今日は術前に行う手続や検査で病院に行ってきました。
 
昨日病院に行ったときに全て終わらせてもよかったのですが、1時に形成外科の予約があって予定が詰まっていたので今日に延期したのです。  
 
まずは放射線科に行き胸のレントゲンをとりました。あまり待たずにすんなりと終わりました。
 
次にケース・マネジャーに会いにブレスト・クリニックへ。昨日Mr.Mが再建がしやすいように、理想のマーキングを私の胸に実際描いてくれました。それを写真にとり、手紙をつけてくれて手術当日に主治医に渡すようにと手渡してくれたのです。私としては手術当日よりも事前に主治医のDr. Eにこの写真と手紙に目を通してもらいたかったので、ケース・マネジャーに頼んでDr. Eに渡してくれるよう頼みました。
   
次にAPU (Ambulatory Procedure Unit : 日帰り手術を含め、手術を受ける患者がチェックインするところ)へ。術前検査のために血を抜かれ、尿を提出しました。その後は麻酔医のDr. Hとの診察でした。手術は朝一番で7時半に始まるとのこと。「手術はちょっと緊張します」と言うと、私はまだ若いし基本的に健康なので、手術自体も特に問題なく行くでしょうと言われました。術後の痛みもうまくコントロールしてくれるそうです。それから麻酔薬の影響で吐き気などが起こるそうで、それに対処する抗嘔吐剤も投与してくれるとのこと。退院は何もなければ基本的に翌日退院です。でももう少し病院に居たかったら入院延長も可能だと言われました。ずっと病院にいたら退屈だと思うし、小さな子供もいるので、特に何もなければ翌日退院のつもりでいます。 
   
帰りに郵便局に寄り、家に帰ってきたのは4時を過ぎていました。私が留守の間にAPUから電話で連絡があり、手術当日の朝は5時までにAPUに来てチェックインしてくれとのこと。前日は深夜過ぎは何も食べられません。それから、いわゆる抗菌石鹸を使って胸と脇の下を丁寧に洗うとの支持です。 
   
手術まであと3日。やっぱり考えるとキンチョーします。

採血された場所は、病室を仮に使っているような場所でした。
チューブ2本ぶん抜かれ、尿検査用のおしっこを提出しました。月曜日の手術では、右の脇の下のリンパ節も取られてしまうため、リンパ浮腫の起こる可能性があります。それで術後は、採血や血圧測定などの際は左を使うよう言われています。右腕で採血してもらえるのは今日限り。だから今日の採血は右腕でやってもらいました。

2008年12月4日木曜日

形成外科医との診察(再建のコンサルテーション)

朝10時に、外科医との診察がありました。
 
最初に入ってきたのはチーフ・レジデント のDr. C。中国系アメリカ人の先生のようです。手術日当日は私の主治医のDr. Eと一緒に手術に携わってくれるということ。初めて会うので、私の今までの経過をざっと話しました。次にインターンの医師が入ってきました。やはり今までの経過を話しました。最後に入って来たのは主治医のDr. E。そしてDr.CとDr.Eによりお決まりの診察。
 
私は両側の乳腺全摘をするため、癌のある右側はDr.E とDr.Cが担当。左側は時間短縮のため、もう一人のDr.Eのパートナーの医師が切除するそうです。それから手術を始める前に、形成外科医のDr.Oがやって来て、どのように皮膚を切除するかマーキングをしてくれるそうな。なんだか私一人の手術に四人もの医師が関わるなんて、大世帯だなあと思いました。

最後はケース・マネジャーのナースのオフィスへ。乳がんの治療には外科、腫瘍内科、放射線科、形成外科など様々な専門科によるケアが行われるため、治療全体をコーディネートしてくれるのがケース・マネジャーの役割です。ケース・マネジャーはRegistered Nurse (正看護婦士)の資格をもつ看護士さんです。
 
彼女に提出する書類や術前検査の支持をもらいました。検査や術前手続を今日やってしまってもよかったのですが、形成外科との診察が1時にあり、時間的にきびしかったので術前手続と検査は明日に延期しました。


すぐに病院を後にし、再建について話会うため、形成外科医のDr.Mのオフィスに向かいました。 Dr.Mのオフィスは病院お隣の市にあり、車で20分ぐらいのところにあります。

Mr.Mは私のクラスメートのお父さんです。形成外科を30年以上やっておられて、とても経験のあるお医者さんです。乳房再建に関しても、その歴史を70年代から見られている方です。それで色々な再建のお話や、様々な再建方法のメリットとリスクの話もしてくれました。

まず私が当初検討していたエキスパンダーによる同時再建(組織拡張法)ですが、メリットは乳房切除術と同時にできること。体への負担も少なくてすみます。シリコン・インプラントは豊胸手術など、胸の脂肪の下に入れる場合はとても良い美的効果をもたらすらしいのですが、ただし私の場合は乳腺全摘なので、基本的に胸の脂肪等全て失います。そこで胸の筋肉の下にシリコン・インプラントを入れた場合、あまり自然なおっぱいの形にならないそうです。

自分の体から組織を移植する様々なフラップ術について。同時再建でなく、乳腺切除術とは別の日程を設定して行われます。現在最もよく行われるのは筋皮弁法で、広背筋皮弁法と腹直筋皮弁法の二つがメジャーです。広背筋皮弁法は背中の皮膚、脂肪、筋肉の一部をとってきて胸の再建に使います。腹直筋皮弁法のほうはお腹の一部を取ります。(分かりやすい図や詳しい説明はこちらで:http://www.csp.or.jp/network/jytugoRyoyo/m_link5_saikenJyutu.html

メリットとしては自然に近い胸が再建できること。デメリットは筋肉の機能が低下すること。広背筋皮弁法では肩の力が、腹直筋皮弁法では腹筋機能が低下することがあります。腹筋が低下すると重いものが持ち上げられなくなったりするらしいです。

そこでMr.Mが薦めてくれたのはDIEPフラップという方法です。これは皮膚と脂肪と血管をお腹から移植する方法で、筋肉を取らないので筋力が低下しません。ただお腹から取ってきた血管を胸部につなぐので、マイクロ術が必要になります。私が乳腺全摘出を受ける病院では、現在のところDIEPができるお医者さんがいません。私の場合両側乳腺全摘出なので、片方だけでも4-5時間、両側だと8-10時間の長い手術になるそうです。
  
話の後は診察室へ。私は4年前に出産しているので、お腹の脂肪がまだかなり残っています。Mr.Mによると、これが良かったとのこと(初めてお腹の脂肪にありがたみを覚えました!)。お腹の脂肪を全部とって胸に移植すれば、今の胸のサイズよりちょっぴり大きめのおっぱいが再建できるということです。
 
つまり豊胸術とお腹のたるみを取る手術(腹部形成)を同時にやってもらうような感じですね。ちょっと心の中でにっこり(本当はおしりのたるみも取ってほしいけど)。でもお腹や胸に大きな傷は残るし、乳首はなくなるし、元のままの胸は帰ってきません。でも癌だもんね、しょうがない。
 
もともと私は再建なんてどうでもいいと思っていました。生きられるなら、胸なんか無くってもいいと今でも思っています。ただ夫のお姉さん(5年前に乳がんの告知を受け、両側乳腺全摘と再建を受けています)に再建を薦められました。私には小さい子供がいるので、夏などは海やプールに行きたがるでしょう。そのときに再建していれば、一緒について行ってあげらるかなとも考えました。また有難い事に私の入っている保険では手術にほとんどお金がかからないので、受けてもよいかなと思ったのです。

再建のほうは術後化学療法と放射線療法が終わってからの手術になります。予定だと6月か7月になりそうです。
 
まずは月曜日に乳腺全摘。しっかりがっぽり、取ってもらいやしょう。

2008年12月3日水曜日

メール

手術まであと5日。
 
私はこの夏に日本に一時帰国していた時に告知されたのですが、ちょうどそのとき地元の病院で短期研修をさせていただいていました。
 
その際にお世話になったある先生に、私の治療経過のお知らせとご挨拶のつもりで昨夜メールを書きました。
 
今日の朝、返事が入っていました。
「患者経験をすることは将来医師になる上で、学校の勉強よりも役に立つ」と励ましを頂きました。
 
また先生には7歳になる元気なお嬢さんがおられるのですが、心臓の疾病で生後14日目に開心術を受けられたとのエピソードも書かれていました。
 
生後14日の赤ちゃんでも、生きようと頑張ったのだ。そして現在も思いっきり生きている。自分も頑張らなくてはいけない、と再び強く思いました。
 
この先生はとても優しい小児科医の先生です。重症の病をもつ子供の親の気持ちを、本当に理解できる立派なお医者様です。
 
私は先生からのメールに、とても元気づけられました。